"乗り鉄"先駆者たちの足跡

本源的需要による鉄道旅行


「本源的需要」と「派生的需要」という経済学の用語がある。 交通サービスに対する需要は、ほとんどが通勤、出張、観光などの本来の目的(本源的需要)を達成するための派生的需要である。 これに対し、ドライブや鉄道旅行は、移動することそのものが目的の本源的需要であり、交通サービスにおいてはきわめて特殊な需要形態といえる。 本源的需要に基づく鉄道旅行を趣味とする鉄道ファンは「乗り鉄」と呼ばれ、日本では伝統的な「撮り鉄」や「模型鉄」とならんで鉄道趣味界の一角を占めるまでになった。 その先駆者たちの足跡をたどる。

目次

無用の汽車旅−内田百閧フ阿房列車
表1 「阿房列車」全行程
乗りつぶし−究極の本源的乗車 表2 「時刻表2万キロ」の旅全行程
最長片道切符の旅 表3 東大旅研の「最長片道切符旅行」全行程


無用の汽車旅−内田百閧フ阿房列車

本源的需要に基づく乗車(わずらわしいので、以降「本源的乗車」と呼ぶことにする)でまず思い浮かぶのは内田百閧ナある。 百鬼園先生の「阿房列車」シリーズ第一作「特別阿房列車」は次のように始まる。
阿房と云ふのは、人の思はくに調子を合はせてさう云ふだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはゐない。 用事がなければどこへも行ってはいけないと云ふわけはない。 なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思ふ。
この「用事はないが汽車に乗る」、すなわち「無用の汽車旅」が阿房列車の旅のコンセプトであり、まさに本源的乗車である。 先生は、用事がなくて乗るのだから一等車(三等級時代の)に乗りたいという。
用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は、五十になった時分からこれからは一等でなけらば乗らないと決めた。さうきめてもお金がなくて用事ができれば三等に乗るかも知れない。しかしどつちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗つてゐる人の顔附きは嫌ひである。
こうして、1950年10月、東京−大阪間に復活した特急「はと」の一等展望車で大阪に向かう。
・・行くときは用事はないけれど、向こうに着いたら、着きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰ってこなければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。 さふいう用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから、三等で帰って来ようと思ふ。
百鬼園先生に言わせると、帰路は用事のある旅行−派生的需要となってしまうのだ。 しかし、大阪に一泊し、翌日の「はと」の帰途は、嫌いなはずのニ等車に乗っている[1]

この「特別阿房列車」を皮切りに、百鬼園先生は、60歳代前半の5年間に14本の「阿房列車」を運転、同行したヒマラヤ山系こと国鉄職員の平山三郎と食堂車や旅館で酒を酌み交わした。 その旅行記は「小説新潮」、「文芸春秋」、「週刊読売」に掲載され、『阿房列車』(三笠書房、1952年7月)、『第二阿房列車』(三笠書房、1954年1月)、『第三阿房列車』(講談社、1956年3月)の三部作として刊行された[2]。 テキストには、乗車した列車や時刻が記載されており、足跡をたどることができる。 その全行程は表1に示すとおりである。

表1 「阿房列車」全行程

タイトル 日程 行程 備考
特別阿房列車 1950/10/22 東京12:30(はと)20:30大阪(泊)  
1950/10/23 大阪12:30(はと)20:30東京  
区間阿房列車 1951/03/10 東京11:00(329)12:34国府津14:35(御殿場線923)16:40沼津17:16(111)18:13興津(泊)  
1951/03/11 興津14:17(334)14:25由比(泊) 「昼過ぎ」の列車 から推定。佐藤良介「内田百闊「房列車の足跡」では、興津12:46(332)12:55由比も併記
1951/03/12 由比12:18(127)12:48静岡15:34(きりしま)18:55東京  
鹿児島阿房列車 前章 1951/06/30 東京21:00(筑紫、車中泊)  
1951/07/01 12:41尾道13:35(安芸)16:13広島16:26(宇品線)16:34上大河(泊) 時刻表には上大河着の時刻はないが他の列車の所要時間から推定
1951/07/02 広島14:36(筑紫)21:05博多(泊)  
1951/07/03 博多10:55(きりしま)18:00鹿児島(泊)  
鹿児島阿房列車 後章 1951/07/04 鹿児島(泊)  
1951/07/05 鹿児島11:15(肥薩線経由814)16:36八代(泊) 佐藤氏の鹿児島発11:27は竜ヶ水駅の発車時刻の誤り
1951/07/06 八代14:15(きりしま、車中泊)  
1951/07/07 18:55東京  
東北本線阿房列車 
奥羽本線阿房列車 前章 
奥羽本線阿房列車 後章
1951/10/21 上野12:50(準急105)18:49福島(泊)  
1951/10/22 福島14:13(青葉)15:44仙台16:02(みちのく)19:44盛岡(泊)  
1951/10/23 盛岡(泊)  
1951/10/24 盛岡11:42(115)17:25浅虫(泊)  
1951/10/25 浅虫12:04(113)12:34青森14:10(512)19:49秋田(泊)  
1951/10/26 秋田12:36(412)14:23横手15:00(718)16:21大荒沢16:42(715)17:35横手(泊)  
1951/10/27 横手14:31(412)18:59山形(泊)  
1951/10/28 山形12:45(320)15:31仙台(仙石線)松島海岸(泊) 佐藤氏の仙台着は15:37。50年10月以降ダイヤ改正はないので誤りと思われる
1951/10/29 松島(ボート)塩釜(車)仙台13:36(青葉)20:42上野  
雪中新潟阿房列車 1953/02/22 上野12:30(越路)18:30新潟(泊)  
1953/02/23 新潟(泊)  
1953/02/24 新潟13:20(越路)19:20上野  
雪解横手阿房列車 1953/02/28 上野21:30(鳥海、車中泊)  
1953/03/01 08:06横手(泊)  
1953/03/02 横手(泊)  
1953/03/03 横手14:43(718)16:08大荒沢16:40(715)17:35横手19:37(鳥海、車中泊) テキストでは、横手発の時刻が「夕六時二十分」となっているが、これは「鳥海」の秋田発時刻を誤記したもの
1953/03/04 06:26上野  
春光山陽特別阿房列車 1953/03/14 東京20:30(銀河、車中泊)  
1953/03/15 06:46京都08:30(かもめ)19:10博多(泊) 特急「かもめ」の初運転列車。上り「かもめ」には阿川弘之が乗車。佐藤氏の京都着は06:55は誤り
1953/03/16 博多10:59(きりしま)14:21八代(泊)  
1953/03/17 八代15:29(きりしま、車中泊)  
1953/03/18 17:37東京  
雷九州阿房列車前章 
雷九州阿房列車後章
1953/06/22 東京12:35(きりしま、車中泊)  
1953/06/23 14:21八代(泊)  
1953/06/24 八代14:05(126)15:00熊本(泊)  
1953/06/25 熊本14:10(721)19:16大分駅(車)別府(泊)  
1953/06/26 別府(泊)  
1953/06/27 別府12:30(準急508)15:21小倉16:30(524)16:39門司20:48(きりしま、車中泊) 小倉−門司間の列車は 「折り返しの「きりしま」の発車迄に、まだ四時間ぐらいも暇がある」という記述から推定
1953/06/28 17:37東京  
長崎の鴉(長崎阿房列車) 1953/10/18 東京13:00(雲仙、車中泊)  
1953/10/19 16:45長崎(泊)  
1953/10/20 長崎(泊)  
1953/10/21 長崎07:28(318)11:23鳥栖11:42(きりしま)14:21八代(泊) 佐藤氏は、長崎08:00(準急3108)11:37鳥栖(大村線・佐世保線経由)も併記。当時肥前山口・諫早間は経路特定区間で、大村線・佐世保線経由も可
1953/10/22 八代15:29(きりしま、車中泊)  
1953/10/23 17:37東京  
房総鼻眼鏡(房総阿房列車) 1953/12/20 両国12:44(総武本線319)15:28銚子(泊)  
1953/12/21 銚子14:51(成田線424)17:26千葉(泊) テキストでは426レとなっているが、銚子14:51発は424レ
1953/12/22 千葉11:03(房総西線123)安房鴨川14:22(泊)  
1953/12/23 安房鴨川14:30(房総東線224)17:08千葉(車)稲毛(電車)東京(泊)  
随道の白百合(四国の阿房列車) 1954/04/11 東京12:30(はと)20:30大阪(泊)  
1954/04/12 大阪(泊)  
1954/04/13 大阪17:00(関西汽船、須磨丸、船中泊)  
1954/04/14 09:00高知(泊)  
1954/04/15 高知10:00(南風)14:00高松(車)鳴門(泊)  
1954/04/16 鳴門(車)小松島23:00(関西汽船、太平丸、船中泊)  
1954/04/17 06:30大阪09:00(つばめ)17:00東京  
菅田庵の狐(松江阿房列車) 1954/11/03 東京12:30(はと)19:51京都19:58(521)20:17大津(泊) 「上りの普通列車に乗って大津駅に引き返す」というだけで列車名・時刻の表示なし
1954/11/04 大津(泊)  
1954/11/05 大津08:29(せと/いづも)17:39松江(泊)  
1954/11/06 松江(泊)  
1954/11/07 松江11:40(いづも)19:30大阪(泊)  
1954/11/08 大阪(泊)  
1954/11/09 大阪12:30(はと)20:30東京  
時雨の清見潟(興津阿房列車) 1954/11/27 東京13:00(雲仙)15:56清水(車)興津(泊) 帰路、暴風雨でダイヤが乱れ興津駅に臨時停車した「きりしま」に乗車とある。佐藤氏は、この旅行を26、27日としているが、静岡県を暴風雨が襲いダイヤが乱れたのは28日だから、27、28日が正しい(「デスクトップ鉄の雑記帳」2009年10月4日記事参照)
1954/11/28 興津(きりしま)17:37東京
列車寝臺の猿(不知火阿房列車) 1955/04/09 東京21:30(筑紫、車中泊)  
1955/04/10 20:59小倉(泊) 佐藤氏の21:03は「筑紫」の小倉発時刻
1955/04/11 小倉(泊)  
1955/04/12 小倉08:00(たかちほ)15:26宮崎(泊) 当時の列車名は高千穂ではなく、ひらがな表示
1955/04/13 宮崎(泊)  
1955/04/14 宮崎05:47(535)09:47鹿児島11:38(きりしま)15:26八代(泊) 早起きが苦手な百鬼園先生にとっては破格な出発時間である
1955/04/15 八代(泊)  
1955/04/16 八代15:29(きりしま、車中泊)  
1955/04/17 17:37東京  
参照:  テキスト:新潮文庫版、『第一阿房列車』(12刷、1967年1月)、『第二阿房列車』(10刷、1967年10月)、『第三阿房列車』(6刷、1967年1月)
時刻表:日本交通公社、1950年10月号、1952年5月号、1953年3月号、1954年10月号(いずれも復刻版)
参考資料:佐藤良介「内田百闊「房列車の足跡」(『レイル』No.31 1996年1月所収)、平山三郎「阿房列車物語」(論創社、1981/03/25)

百鬼園先生は、14本の阿房列車で北海道を除く全国を訪れているが、好みの列車に乗り、同じ路線を再訪することが多かった。 その旅程は後述する『時刻表2万キロ』の宮脇俊三氏と比べると非常に余裕があり、同じ旅館に連泊するケースも珍しくない。

お気に入りの旅館「松浜軒」がある八代には、5回訪れている。 八代への往復には博多まで一等寝台車を連結していた「きりしま」を利用するのが常であった。 阿房列車シリーズでの「きりしま」乗車は、10回を数える。 また「特別阿房列車」の「はと」も好みの列車で、1952年10月鉄道開業80周年記念で東京駅の一日駅長を務めたとき、見送るべき「はと」に乗り熱海まで行ってしまったというエピソード(「時は変改す」)がある。


乗りつぶし−究極の本源的乗車

手段を目的化するという意味で、本源的需要による鉄道旅行の究極形態は「乗りつぶし」であろう。 知られている限りの最初の国鉄完乗者は、1959年8月29日に富内線振内駅で達成した後藤宗隆氏である。 『旅』の1980年8月号に氏が寄稿したところを抜粋すれば次のとおりである。
当時全線走破は”変なこと”とみられていたが数人のマニアがひそかにねらっていた。 新線の開業が記録達成を阻んでいた。 紀勢線全通から8ヶ月間新線開業がないチャンスを狙って達成した。 8月31日の「私の秘密」に全線走破第1号というふれこみで出演した。 第1号の確証はなかったがクレームがなくほっとした。
国鉄から胡散臭くみられていた「完乗」が市民権を得たのは、宮脇俊三の『時刻表2万キロ』(河出書房新社、1978年7月)によってである。 石野哲の『時刻表名探偵』(日本交通公社、1979年3月)の完乗者リストによれば、宮脇氏は25人目の国鉄完乗者である[3]。 末期の国鉄が1980年3月から行った「いい旅チャレンジ20000km」キャンペーン以降大量の完乗者を輩出した[4]

『時刻表2万キロ』には、筆者が中央公論社のサラリーマン時代の国鉄完乗への旅がきわめて淡々と綴られている。宮脇氏は、完乗を目指した経緯を次のように記す。

私は国鉄全線を乗りつぶそうと思って生まれてきたわけではなく、子供のころから(中略)時刻表を見るのが好きで、したがって汽車に乗るのも好きであったにすぎない。 そうやってあちこち旅行していればだんだん欲が深くなるのは自然の成り行きであって、その結果、全線完乗を目指すようになった、ただそれだけのことである。
宮脇氏は、1975年の正月に18,000キロを超えたところで国鉄完乗を決意し、『時刻表2万キロ』の旅をはじめる。 その時点で、未乗区間は全国各地に散らばっていた。 週末や年末年始の休みを利用して、アプローチに新幹線や寝台特急、時には飛行機を利用し、数路線ずつつぶしてゆく。 表1に示した内田百閧フ「阿房列車」の余裕のある旅と比べて、まだ40歳代後半の宮脇氏は一刻を争って乗車に徹している。 1977年5月足尾線間藤駅で国鉄完乗を果たした。

宮脇氏の国鉄完乗への旅の行程を表2に示す。なお『時刻表2万キロ』で省略されている行程の一部が『汽車旅12ヶ月』に記載されているので、これで補った。

表2 「時刻表2万キロ」の旅全行程

日付 行程(B:バス、F:フェリー、T:タクシー、W:徒歩) 備考
1975/04/11 ・・・東京16:48(ひかり)22:08三原22:20(彗星1、車中泊) 『時刻表2万キロ』には書かれていないが、完乗を決意したあとの旅行であり、『汽車旅12ヶ月』に記載されているので付け加えた。
1975/04/12 7:06延岡7:42(828D)9:38高千穂(B)高森14:17(2128D)14:44立野14:54(火の山3)15:24阿蘇(B)肥後小国16:46(230D)17:58豊後森18:00(640)18:38日田19:55(由布2)21:19博多(泊) 高千穂線、高森線、宮原線完
1975/04/13 筑豊本線 『汽車旅12ヶ月』は、博多までで終わっているが、『旅』2000年9月号「特集 宮脇俊三の世界」掲載の路線ごとの乗車日が書かれた白地図に、筑豊本線の未乗区間に乗車との記載がある
1975/09/23 ・・・上野20:51(越前、車中泊)  
1975/09/24 4:50富山4:54(840D)6:16神岡6:20(622D)6:49猪谷7:17(821D)8:14富山(T)東岩瀬8:35(833D)8:51富山9:00(立山1)9:14高岡9:20(431D)9:47氷見9:51(434D)10:19高岡10:30(加越3)11:57福井12:20(129D)14:05九頭竜湖(B)美濃白鳥15:55(338D-のりくら5)19:03名古屋19:19(ひかり14)21:20東京・・・ 神岡線、氷見線、越美北線、越美南線完。猪谷で予定していた先発列車に乗り損ない、富山からタクシーで追いかけるも岩瀬浜までたどり着けず。名古屋からの列車名は記載なし
1975/09/27 青梅線、五日市線、横浜線 青梅線、五日市線、横浜線完
1975/10/25 (東松原-下北沢)-登戸-尻手-浜川崎-扇町-武蔵白石-大川-武蔵白石-浅野-海芝浦-鶴見・・・ 鶴見線完
1975/11/03 ・・・上野8:00(もりおか1)9:32水戸9:49(525D)10:17常陸太田10:21(528D)10:32上菅谷10:40(331D)14:29郡山14:52(ひばり8)17:19上野・・・ 水郡線完
1975/11/09 ・・・上野6:38(とき1)9:10六日町(B)十日町10:17(133D)10:52越後川口11:11(723M)11:38長岡11:50(とがくし1)12:18柏崎12:32(143D)13:56吉田15:33(244D)15:42弥彦15:50(243D)16:33東三条17:11(247D)17:23越後長沢17:30(252D)17:43東三条18:20(とき12)21:49上野・・・ 飯山線、越後線、弥彦線完。十日町から東三条までのルート・時刻はテキストに記載されていないが、「東三条からとき12号で東京に戻った」から推定
1975/12/13 ・・・東京8:24(ひかり155)10:25名古屋10:42(紀州2)11:44津(近鉄特急)大和八木/桜井-高田-天王寺-西九条-桜島-新大阪-東京・・・ 伊勢線、桜井線、桜島線完
1975/12/27 ・・・東京13:00(ひかり11)19:56博多(泊)  
1975/12/28 博多6:28(525D)8:00東唐津(T)西唐津8:17(728D)8:32山本8:35(525D)9:18伊万里9:31(638D)9:52有田10:00(425)10:16早岐10:30(829D)11:42諫早(B)島原外港14:50(F)15:50三角16:35(540D)17:32熊本17:56(有明8)21:25西鹿児島(泊) 唐津線、松浦線、大村線、三角線完。テキストには熊本18:56発とあるが、誤記
1975/12/29 西鹿児島5:15(723D)7:47枕崎8:48(鹿児島交通)10:29伊集院10:46(930D)11:34川内13:05(529D)15:12薩摩大口15:23(438D)16:25水俣16:28(134)17:39八代18:39(有明9)20:55博多(泊) 指宿枕崎線、宮之城線完
1975/12/30 博多6:35(132M)香椎6:59(624D)7:20西戸崎7:27(625D)7:48香椎7:59(627D)8:24宇美8:32(825D)筑前勝田8:51(826D)9:16吉塚-博多10:01(出島1)小倉11:32-12:26伊田12:39-13:27行橋13:34(ゆのか5)13:55小倉14:15(546M)14:30門司港14:42(はんだ)16:24添田16:56(928D)17:18香春17:22(737D)17:43豊前川崎17:47(930D)18:05上山田18:18(834D)18:42飯塚19:04(1542D)19:51博多21:18(明星4、車中泊) 香椎線、勝田線、日田彦山線、田川線、伊田線、添田線、上山田線完。テキストには西戸崎7:31発とあるが、時刻表では7:27
1975/12/31 5:36姫路(阿蘇)5:59加古川6:11(521D)6:42三木6:47(524D)7:00厄神7:03(725D)7:19粟生7:22(623D)7:49北条町8:10(628D)8:37粟生8:37(727D)9:32鍛冶屋9:37(740D)10:02野村10:04(829D)10:35谷川10:37(722)13:00大阪-新大阪-東京・・・ 加古川線、三木線、北条線、鍛冶屋線完
1976/01/16 ・・・東京19:00(ひかり185)22:10新大阪22:28(明星7、車中泊)  
1976/01/17 6:20厚狭6:30(721D)6:57南大嶺7:00(623D)7:04大嶺7:25(624D)7:30南大嶺8:03(723D)8:53仙崎(T)長門市9:43(860D)10:18萩(B)秋吉台(B)小郡14:42(3235M)15:39宇部15:40(3950M)15:51宇部新川16:19(541M)16:32雀田16:35(635M)16:40長門本山16:48(638M)16:53雀田16:54(543M)17:25小野田17:47(457M)18:29下関18:10(1241M)18:24小倉(泊) 美祢線、宇部線、小野田線完
1976/01/18 小倉6:52(ひかり20)8:10広島8:14(323M)8:18横川8:20(537D)10:22三段峡10:26(540D)11:15可部12:00(734M)12:34横川12:45(455M)13:25岩国15:25(527D)16:26錦町16:32(530D)17:17御庄(W)新岩国17:42(ひかり118)23:44東京・・・ 可部線、岩日線完
1976/02/07 男鹿線 男鹿線完。上記『旅』2000年9月号の白地図による
1976/03/05 東京18:12(ひかり195)21:26新大阪21:43(彗星3、車中泊) 日付は上記白地図、時刻は『汽車旅12ヶ月』よる。友人二人が同行。
1976/03/06 8:13別府9:30(宇和島運輸F)12:15八幡浜12:31(642D)12:58五郎13:24(739D)13:46内子14:37(740D)15:00五郎15:09(645D)17:17宇和島(泊) 出典は上記による。内子線完
1976/03/07 宇和島9:24(1846D-あしずり3)14:24大歩危(T)祖谷口15:28(226)18:40高松19:35(宇高F)20:35宇野21:00(瀬戸、車中泊) 同上。同行者のために観光的要素も組み込んだ。予土線完
1976/03/08 7:25東京・・・  
1976/04/17 ・・・西寒川16:44(432D)16:19寒川・・・ 日付は上記白地図。相模線(西寒川支線)完
1976/05/02 ・・・東京6:04(こだま201)7:39静岡7:52(432M)8:03清水8:11(663レ)8:36三保(B)清水9:44(439M)9:58静岡10:16(こだま219)11:03豊橋11:11(543M)11:45岡崎12:13(929M)12:40新豊田13:03(928M)13:31岡崎13:44(547M)13:59大府14:22(936D)14:55武豊15:00(941D)15:35大府15:40(3139M)16:30大垣16:55(227M)17:02美濃赤坂17:11(560M)17:19大垣17:26(939D)18:08美濃神海18:36(940D)19:21大垣19:29(1548M)20:13名古屋20:31(ひかり122)22:32東京・・・ 清水港線、岡多線、武豊線、東海道本線(美濃赤坂支線)、樽見線完
1976/05/07 ・・・上野23:41(新星、車中泊) 『汽車旅12ヶ月』によった
1976/05/08 6:01仙台7:27(422D-2524D)8:37丸森8:55(523D)9:17槻木9:21(1523)9:53仙台10:11(3021M)11:17石巻11:45(829D)12:13女川12:35(832D)13:26前谷地13:30(925D)13:55柳津14:08(926D)14:35前谷地15:11(834D)15:33小牛田16:07(538)17:11仙台17:20(ひばり12)21:19上野・・・ 丸森線、石巻線、柳津線完
1976/05/15 ・・・東京20:24(ひかり99)22:25名古屋22:50(金星、車中泊)  
1976/05/16 5:49広島6:00(854D)8:07三次8:18(2328D)9:06口羽9:50(328D)11:06粕淵11:26(B)12:29大田市13:22(おき1)14:00米子14:40(822)16:04倉吉16:07(449D)16:45山守17:46(452D)18:10打吹18:24(430)18:37倉吉18:40(230D)19:34鳥取(泊) 『汽車旅12ヶ月』によった。三江線、倉吉線完
1976/05/17 鳥取7:05(333D)8:03若桜8:08(334D)8:54鳥取9:25(いなば)10:55米子11:28(やくも3)12:46新見13:15(924D)14:26総社14:40(748D)15:20岡山・・・ 若桜線、総社線完。記載はルートのみで、列車名は推定
1976/05/28 ・・・上野22:41(津軽2)  
1976/05/29 4:45山形5:17(321D)6:09左沢6:15(324D)7:09山形7:25(440)8:18赤湯8:30(225D)9:36荒砥(T)今泉10:22(あさひ1)12:07新発田13:07(6127D)13:48東赤谷14:33(6128D)13:54新発田15:09(834)15:44新津15:56(438M)17:12長岡17:57(524)18:13来迎寺18:18(131D)18:43西小千谷(W)小千谷19:26(734M)22:04新前橋22:06(928M)23:29大宮-赤羽-池袋-渋谷 左沢線、長井線、赤谷線、魚沼線完
1976/06/18 ・・・上野20:50(十和田2) 『時刻表2万キロ』」では「北海道に渡る前に宮古線、久慈線に乗ってきた」だけだが、『汽車旅12ヶ月』に詳しい行程があった
1976/06/19 5:19花巻6:03(はやちね1)7:44釜石8:06(627D)9:39宮古10:00(823D)10:18田老10:23(824D)10:40宮古(三陸海岸観光)普代16:40(644D)19:32八戸19:35(しもきた)20:56青森(泊) 友人二人が同行したため、観光も。宮古線、久慈線完
1976/06/20 青森7:30(青函F)11:20函館11:50(宗谷)19:43名寄(泊) 前日の八戸以降は推定
1976/06/21 名寄6:25(335D-921D)7:35仁宇府7:42(922D)8:08美深8:43(337D-225D)11:29浜頓別11:45(925D)12:31北見枝幸(B)雄武14:40(828D)15:10興部15:48(627D)17:08中湧別17:12(926D)17:20湧別17:25(941D)17:33中湧別18:05(1634D)18:43紋別 美幸線、興浜北線、興浜南線完
1976/06/22 紋別8:16(723D)9:20北見滝ノ上9:25(726D)10:22渚渇10:35(1623D-大雪2)15:49砂川15:52(631D)16:19歌志内16:25(632D)16:50砂川16:59(933D)17:15上砂川17:20(934D)17:32砂川17:56(天売)18:24岩見沢18:42(937D)19:24万字炭山19:30(938D)20:11岩見沢20:16(かむい7)20:54札幌(泊) 渚滑線、名寄本線、歌志内線、函館本線(上砂川支線)、万字線完
1976/07/02 東京17:12(ひかり181)19:41米原19:54(加越5)20:25敦賀20:29(938D)20:51美浜(泊) 敦賀−美浜間を鉄道に乗ったという記述はない
1976/07/03 美浜-敦賀(湖西線)大阪16:05(427D)16:19塚口16:38(824)16:52尼崎港/阪神尼崎-梅田(大阪泊) 福知山線(尼崎港支線)完
1976/07/04 難波-羽衣/東羽衣-鳳・・・ 阪和線(東羽衣支線)完
1976/07/16 ・・・上野19:27(津軽1)4:47大曲5:37(1822)6:06角館6:26(921D)6:56松葉7:00(922D)7:33角館(B)羽後境8:50(443)9:22秋田9:57(しらゆき)10:32羽後本荘10:37(327D)11:19羽後矢島11:24(328D)12:04羽後本荘13:07(きたぐに)15:18鷹ノ巣15:26(231D)16:58比立内17:40(236D)19:15鷹ノ巣19:49(いなほ1)21:10青森23:35(ゆうづる7、車中泊) 角館線、矢島線、阿仁合線完
1976/07/17 8:48上野・・・  
1976/08/22 吾妻線 『時刻表2万キロ』」では「秋から本業の仕事が忙しくなり…その間に乗れたのは、…(左記5線区)…のみで、計五三・一キロに過ぎなかった。」と省略されているが、上記『旅』2000年9月号の白地図に路線ごとの乗車日が書かれている
1976/09/05 明知線
1977/04/03 山陽本線(和田岬支線)
1977/04/10 高砂線、播但線(飾磨港支線)
1977/04/15 ・・・東京16:48(ひかり143)22:08三原22:21(彗星1、車中泊)  
1977/04/16 8:26宮崎8:42(623D)7:44杉安(B)村所(B)湯前12:58(632D)15:12八代15:40(2158M-178M)18:49基山18:58(531D)19:23甘木19:40(530D)20:04基山20:19(184M)20:58博多(泊) 妻線、湯前線、甘木線完
1977/04/17 博多7:05(阿蘇)7:54羽犬塚8:00(425D)8:38黒木8:54(426D)9:32羽犬塚9:38(821D)9:48瀬高10:03(530D)10:46佐賀11:12(かもめ1)12:50長崎13:26(かもめ4)16:43黒崎17:01(2759D)17:50新飯塚18:06(631D)18:24漆生18:29(933D)19:16豊前川崎19:17(740D)19:26後藤寺19:53(333D)20:05金田20:07(240D)20:22直方20:24(2768D)20:44折尾20:52(180M)21:21小倉(泊) 矢部線、長崎本線、漆生線、糸田線完
1977/04/18 小倉6:49(131M)7:13折尾7:19(125)7:35香月7:45(126)7:55中間7:58(733)8:14直方(T)筑前宮田9:05(428D)9:19直方(B)宮田(T)室木10:05(826)10:27遠賀川10:38(150M)11:12小倉-東京・・・ 香月線、宮田線、室木線完
1977/04/24 ・・・浅草11:00(東武)12:55鬼怒川温泉(B)早坂バス停(W)会津滝ノ原15:28(330D)17:18会津若松17:47(235)18:12喜多方18:32(625)19:00熱塩19:15(626)19:43喜多方20:46(234)21:08会津若松(泊) 会津線、日中線完
1977/04/25 会津若松・・・  
1977/05/07 ・・・東京7:24(ひかり123)10:34新大阪-三の宮(W)中突堤12:10(F)13:40鳴門(B)徳島15:22(638D)15:40小松島港(W)南小松島16:02(549D)19:33海部19:33(558D)21:54徳島21:56(358D)23:58高松 小松島線、牟岐線完
1977/05/08 高松0:25(宇高F)1:25宇野1:40(鷲羽1)4:49三ノ宮-新大阪6:14(こだま)6:59米原7:23(くずりゅう1)9:44金沢10:00(能登路3)13:49蛸島14:05(432D)17:58津幡18:16(347M)18:59富山19:19(163M)19:38岩瀬浜19:42(164M)20:03富山21:53(北陸、車中泊) 急行・グリーン料金節約のため三宮で国電に乗り換え。75/09/24に乗りそこなった東岩瀬−岩瀬浜間を乗車。能登線、富山港線完
1977/05/09 5:45上野・・・  
1977/05/20 羽田18:00(JAL)千歳…札幌21:30(狩勝4、車中泊)  
1977/05/21 5:38白糠6:38(531D)7:22北進7:28(532D)8:11白糠8:15(253D)8:54釧路9:20(おおぞら2)14:03滝川14:11(なよろ2)14:29深川15:57(737D)17:30留萌18:17(767D)18:46増毛18:56(768D)19:26留萌19:56(るもい2)20:49深川20:53(オホーツク)21:40岩見沢(泊) 白糠線、留萌本線完
1977/05/22 岩見沢6:21(222)7:07追分7:11(725D)紅葉山8:05(833D)8:18登川8:50(834D)9:01紅葉山9:10(3538D)9:40追分9:55(3538D)10:45苫小牧11:08(ちとせ3)11:39登別14:13(ちとせ5-592D)14:48室蘭16:35(231)16:51東室蘭16:58(おおぞら2)17:57長万部18:07(931D)19:38瀬棚19:51(930D)21:12長万部21:18(ニセコ2)23:05函館 夕張線(登川支線)、瀬棚線完
1977/05/23 函館0:15(青函F)4:05青森4:50(白鳥)5:20弘前5:45(1121D)6:10黒石6:14(122D)6:50林崎7:03(1723D)7:31弘前8:11(434)9:39大館(T)大更11:44(よねしろ1)12:14盛岡12:28(五葉)14:55釜石15:48(B)上野バス停(W)吉浜17:23(528D)17:53盛18:08(336D)21:25一ノ関・・・ 黒石線、盛線完
1977/05/28 ・・・上野10:17(東武・あかぎ2)12:39桐生12:42(727D)14:25間藤(T)足尾本山・・・ 足尾線完、国鉄完乗
1977/12/10 ・・・上野-仙台(泊)  
1977/12/11 仙台-前谷地9:53(925D)11:50気仙沼12:16(からくわ)一ノ関・・・ 気仙沼線開業日のタイトル防衛乗車。列車は40分遅延したが接続列車は待っていた
参照:  テキスト:『時刻表2万キロ』河出書房新社版(1978年4月初版)、『汽車旅12ヶ月』潮出版社版(1979年12月初版)
時刻表:日本交通公社「時刻表」1975年6月号、1976年10月号、1977年3月号
参考資料:『旅』2000年9月号「特集 宮脇俊三の世界」所収の乗り潰し用白地図


最長片道切符の旅

完乗とともに本源的乗車のもう一つの究極形態は、「最長片道切符旅行」だろう。 最長片道切符旅行は、本来の目的を達する手段としての交通機関に加えて、その通過する経路自体を目的とするという二重の意味において、本源的需要による鉄道旅行といえる。 2004年NHKがBSで「列島縦断鉄道12000キロの旅−最長片道切符でゆく42日」を放映し、最長片道切符旅行が一躍脚光を浴びた。

最長片道切符は、均一運賃制を採用しているものを除くすべての事業者に存在するが、最長片道切符旅行が本源的乗車として試みられてきたのは、旧国鉄の最長片道切符であり、またその路線を継承したJRグループのものである。 分割民営化されたJRにおいて最長片道切符旅行が成立するのは、旧国鉄時代と同様、旅客鉄道各社にまたがる乗車キロを通算して運賃を計算し、一筆書きでルートがダブらない限りどんなに長くても片道の切符を発売することにある[5]

知られている限り最初に国鉄の最長片道切符旅行を行ったのは、東大旅行研究会の会員4名、岩永祐二、江崎真幸、海野隆哉、鷲尾悦也の各氏である。 1961年夏に鹿児島県の海潟駅から北海道の広尾駅に至る12,145.3キロを旅行した。 その旅行記は、「最長切符旅行」(『世界の旅10、日本の発見』中央公論社、1962年9月)として、経路探索[6]の過程とともに記載されている。 彼らも旅行後の8月14日、NHKの「私の秘密」に出演した。

旅行中は国鉄構内から出ないというルールを課し、24日間連続して駅に宿泊した(うち17泊は待合室やホームのベンチ)。 原則として普通列車を利用、ほぼ連日始発列車で出発し、最終列車の終着駅で一日の行程を終える。 24日21時間39分という旅行時間も当時の最短所要時間であるという。 百鬼園先生はもとより宮脇氏に比べても乗車そのものに徹している。 しかし、車中ではトランプに興じたりしていて、車窓の風景を楽しむ「乗り鉄」としては違和感を覚えるところもある。

旅行記には、利用した列車等はほとんど記述されていないが、最長片道切符の経路図と当時の時刻表からその行程を表3のように推定した[7]

表3 東大旅研の「最長片道切符旅行」全行程

  
日付 行程 備考
1961/07/15 海潟17:22(540)18:17鹿屋19:02(538)19:51志布志20:09(428)21:16西都城 540レから538レへの乗り継ぎは、垂水−鹿屋間の各駅で可
1961/07/16 西都城6:09(531)7:25隼人7:49(812)8:41栗野8:46(516)11:16川内11:50(942D)13:08出水15:44(120)17:42八代18:00(819)21:24吉松21:30(678)23:25都城   
1961/07/17 都城6:54(534)8:08宮崎9:02(524)14:44大分15:30(第1ひかり)18:22熊本19:14(120)21:27久留米21:47(633)22:43夜明 都城で寝過ごして始発列車に乗り遅れるが、大分から準急を利用し、熊本で予定列車に追いつく
1961/07/18 夜明5:43(736)6:46添田6:48(930)7:13香春7:20(736)8:06城野8:44(515)9:15行橋9:53(417)10:48後藤寺11:06(618)金田11:21(320)11:41直方11:48(629)13:00原田13:14(117)13:28鳥栖13:44(425)14:53肥前山口15:15(325)17:13諫早18:12(826)20:08佐世保20:20(640)22:19松浦 夜明−添田間で乗った736レに香春で再度乗車。417レは伊田経由
1961/07/19 松浦6:18(614)6:57伊万里7:05(522)9:30博多9:47(416)9:50吉塚10:25(838)10:46宇美10:59(618)11:29香椎11:36(220)13:36下関14:42(822)16:55正明市17:07(522)18:19厚狭18:40(330)18:49小野田19:01-19:24居能19:53-20:00西宇部20:06(4030M)20:37小郡 正明市、西宇部、小郡は、それぞれ現在の長門市、宇部、新山口(当時の宇部は現宇部新川)。斜体字は時刻表に発着時刻の記載がないため推定。宿泊駅の記述がないが、「小郡にてオールスターの第二戦を聞いた」から小郡泊と推定
1961/07/20 小郡5:08(513D)7:42石見益田8:02(814)13:01宍道14:29(429D)15:19木次15:29(431D)17:44備後落合17:48(836)19:20備中神代20:24(915)22:14伯耆大山  
1961/07/21 伯耆大山4:57(810)7:36鳥取7:45(627)10:14津山10:17(815)12:25新見12:39(932D)14:10倉敷15:26(235)16:32福山16:38-17:26府中17:41(937D)19:38三次  
1961/07/22 三次3:53(ちどり)5:12広島5:40(224)7:30三原7:33(631D)8:59仁方9:10(11)11:35堀江11:18(450D)13:34伊予西条14:01(34D)16:02多度津16:17(139)17:27阿波池田17:30(361D)19:20佐古19:27(272D)21:24高松21:50(30)22:55宇野 「3時57分に三次を出発」とあるが、時刻表では3:53発。当時土讃線に佃駅がなく阿波池田が分岐駅
1961/07/23 宇野5:28(532M)6:23岡山7:25(230)9:55加古川10:00(713D)10:57野村12:02(821D)12:35谷川13:30(742)16:01大阪16:20(868M)16:54京都17:44(833)22:17豊岡 野村は現。大阪-京都間は、868Mのあとの列車でも乗り継ぎ可
1961/07/24 豊岡5:07(112)7:21西舞鶴7:55(935D)9:56敦賀11:29(こがね)19:27岐阜20:26(727)21:35米原21:46(913M)22:37草津22:40(766D)23:44柘植 準急「こがね」は、名古屋発東海道・北陸・高山線周り名古屋行の循環列車
1961/07/25 柘植5:10(311)6:21木津6:26(913D)7:00長尾-京橋-天王寺8:55(342)9:58奈良10:18(625D)11:12高田11:24(527D)13:39和歌山14:28(116)21:27新宮  
1961/07/26 新宮6:04(912)12:23名古屋12:40(823)17:51塩尻18:07(420)18:45辰野19:00(138M)22:28平岡  
1961/07/27 平岡6:28(212M)9:05豊橋9:38(324D)12:13掛川12:16(330)14:34沼津15:03(636)16:46国府津17:12(848M)17:40茅ヶ崎18:20(235D)18:40橋本18:47-19:36東神奈川-鶴見-浜川崎-尻手-立川-新宿 「新宿着は、夜の11時で、こんな遅くに親を呼び出す親不孝な奴も」
1961/07/28 新宿-田端-赤羽-上野-秋葉原-千葉-安房鴨川-大網18:26(633D)18:46成東18:53(319)19:51松岸20:50(452)22:11成田22:12(858D)23:07我孫子 「今日は時間の都合がつくので出発は午前11時」。国電区間のほか、参照した時刻表のページが一部欠落している房総西・東線の列車も推定できず
1961/07/29 我孫子5:15(425)7:03水戸8:55(329D)12:29安積永盛12:50(126)17:21大宮17:44(929M)19:01倉賀野19:09(250D)21:22八王子 425レは我孫子の常磐線下り始発列車。このあとの列車でも乗り継ぎ可
1961/07/30 八王子4:55(431)9:17小淵沢9:48(115D)12:44小諸12:51(白樺)15:01高崎15:20(735)19:30越後川口19:52(124D)20:26十日町  
1961/07/31 十日町5:23(114D)8:47長野9:55(ちくま)11:15松本12:20(19M)13:47信濃森上13:53(125D)15:11糸魚川15:17(221)16:28直江津16:55(あさま)18:30東三条19:02(234D)19:23吉田19:27(133D)21:24新発田22:07(944D)22:45新津 133Dは越後線-白新線直通列車
1961/08/01 新津6:02(216)11:24郡山13:17(520)15:46平17:24(233)21:12岩沼21:47(134)23:11福島 平は現いわき
1961/08/02 福島5:51(413)7:53赤湯9:23(5D)9:48今泉9:51(117)11:49坂町13:25(日本海)17:45秋田18:30(津軽)22:43山形 神町で「津軽」から普通列車に乗り換え、羽前千歳駅で泊まる予定だったが、下車し忘れ山形で駅泊。通過列車区間外乗車の特例で羽前千歳−山形の複乗は可能
1961/08/03 山形5:46(314)7:53仙台8:20-9:49石巻9:54(618D)10:34小牛田11:42(117)14:49花巻15:55(423)18:32釜石19:32(582)21:47宮古  
1961/08/04 宮古5:20(512D)7:54盛岡8:41(317)12:01大館12:29(414)13:41東能代15:17(219D)19:42川部20:22(413)21:17青森(*)函館 青函連絡船は臨時便
1961/08/05 函館6:17(11)12:37倶知安12:57(828D)15:26伊達紋別15:54(235)16:30東室蘭16:54(221)20:13岩見沢20:15(26)21:15札幌 11レは東森経由
1961/08/06 札幌6:29(613D)9:44石狩沼田10:34(733)11:32留萌11:47(95)14:10築別15:00(39D)17:04幌延17:50(311)19:18南稚内20:01(724)23:34音威子府0:04(利尻)1:05名寄  
1961/08/07 名寄5:37(813)9:11中湧別9:40(37D)11:50網走13:20(545)16:56標茶17:00(21D)中標津  
1961/08/08 中標津5:05(40D)6:10厚床7:00(42D)9:03釧路9:35(418)12:08池田12:27(605D)15:45北見22:38(石北) 「今夜ははじめて夜行を使うことになった」とある。中標津の始発から乗りつぐと北見で時間が余る。どこで長時間滞在していたのか不明
1961/08/09 4:49滝川5:42(433)11:12帯広13:12(817D)14:58広尾  
参照:  テキスト:中央公論社『世界の旅10、日本の発見』(1962年9月初版)
時刻表:交通案内社「日本時間表」1961年8月号


[1] その後の阿房列車運転時にも一等車が連結されていない列車では、三等車ではなく、嫌いなはずの二等に乗っている。阿房列車当時、一等車を連結する列車は、つばめ、はとの展望車と、東海道・山陽線及び上野・札幌間(青函航路は航送。1954年9月の洞爺丸事故以降廃止)の夜行急行の一等寝台車に限られていた。さらに一等寝台車は次々と二等に格下げされ、百關謳カとしては乗る列車がなくなってしまった。「長崎の鴉」に次の言い訳の文章があるが、二等車に乗車したのは寝台車ばかりではない。
だから一等で長崎へ行きたいと思ふけれど、「雲仙」に一等車がないのだから仕方がない。長崎までは二十八時間掛かる。一昼夜よりまだ長い。一晩寝ずに旅程を通すと云ふ事は、私には困難である。三等には、戦前の三等寝台はまだ復活してゐない。仕方がないから、二等に乗り、二等寝台に寝て行く事にした。
[2] 現在は、新かな、当用漢字版が新潮文庫で入手可能である。旧かなにこだわった、地下の百鬼園先生は何と言っているだろう。
[3] その後石野氏を含む「国鉄全線走破人有志」がまとめた「国鉄全線走破の記録」という小冊子(1980年5月刊)によると、宮脇氏は28位に後退している。 「いい旅チャレンジ」キャンペーンが始まった1980年3月以前に、少なくとも60名が国鉄完乗を果たしていたらしい。

初期の国鉄完乗者(*は『時刻表名探偵』のリストに記載されていない完乗者)

No 氏名 達成日 達成駅
1
後藤 宗隆 1959/08/29 振内
2 根本 幸男 1962/11/07 江川崎
3 浜田 綱生 1964/03/21 枕崎
4 後藤 明 1968/09/?? ?
5 田沼 建治 1969/10/05 明智
6 小沢 十三男 1971/03/26 上総中野
7 石野 哲 1971/03/26 大前
8 木俣 栄一 1972/11/04 武蔵五日市
9 小出 隆 1973/02/13 小出
10 福田 行高 1973/03/22 日光
11 斎藤 英夫 1973/11/22 日光
12 中森 敏和 1974/03/26 雄武
13 二川 忠 1974/11/22 黒石
14 武部 宏明 1975/03/18 直方→金田
15 広瀬 貴志 1975/11/02 普代
*16 松田 政一 1975/11/03 新十津川→桑園  
17 奥富 三平 1975/11/03 日光
18 片岡 正昭 1976/02/04 仁宇布
19 栗原 孝弘 1976/03/24 銚子→成東
*20 森田 隆夫 1976/07/18 銀山→小沢
21 高須 清 1976/08/13 本吉
22 岡本 寛 1976/08/31 西寒川
*23 富山 靖 1977/01/02
24 森川 尚一 1977/01/20 間藤
25 石田 穣一 1977/01/22 松葉
26 長谷部 邦夫 1977/05/03 奥多摩
27 梶山 正文 1977/05/15 鹿島神宮
28 宮脇 俊三 1977/05/28 間藤
*29 森田 信吉 1977/05/31 森→砂原→大沼
30 山田 敏明 1977/08/27 信楽
No 氏名 達成日 達成駅
31 氣賀 治夫 1977/12/12 気仙沼→前谷地
32 西 泰英 1977/12/16 田老
33 藤城 昌治 1977/12/17 鹿島神宮
34 小島 康成 1978/03/19 内子
*35 清田 和茂 1978/03/23 高千穂
36 福田 清 1978/04/02 烏山
37 堀本 光 1978/08/02 日光
*38 藤原 徹 1978/08/24 奥多摩
*39 西川 寛巳 1978/10/09 本吉→柳津
*40 小林 良照 1979/03/27 大船→北鎌倉
*41 吉川 正人 1979/07/14 氷見→高岡
*42 山岸 明弘 1979/07/17 羽後矢島
*43 清水 裕司 1979/07/27 (越美南)→美濃太田
*44 福井 武 1979/07/28 志布志→大隈大崎
*45 多田 正 1979/08/25 松葉
*46 武田 守哉 1979/09/01 (幹)博多→京都
*47 松山 由紀夫 1979/09/17 常陸太田
*48 稲見 真一 1979/09/17 辰野→飯田
*49 山崎 藤衛 1979/09/23 標茶→中標津
*50 波多野 康男 1979/11/04 高千穂
*51 石原 昌幸 1979/11/04 三段峡
*52 小林 好昌 1979/11/25 奥多摩
*53 水田 岩雄 1979/12/16 (木次)→備後落合
*54 小野打 真 1979/12/28 東神奈川→大口
*55 栗山 敬 1980/02/22 足尾→通洞
*56 岡村 良一 1980/02/22 武蔵五日市
*57 関 正典 1980/03/02 信楽
*58 高橋 大恵 1980/03/04 茂木
*59 西田 雅人 1980/03/07 蛸島
*60 石塚 淳 1980/03/22 品川→渋谷
[4] 富士フィルムが協賛し、踏破しようとする路線の起・終点駅の駅名が確認できる標識などをバックに撮った写真によって、その路線の乗車を認定するというものだった。その期間は10年と設定されていたため、JRに引き継がれて1990年完了した。
[5] 旅客営業規則第26条は、
片道乗車券は、普通旅客運賃計算経路の連続した区間を片道1回乗車船(以下「片道乗車」という。)する場合に発売する。 ただし、第68条第4項の規定により鉄道の営業キロ、擬制キロ又は運賃計算キロを打ち切つて計算する場合は、当該打切りとなる駅までの区間のものに限り発売する。
と規定し、これを受けた第68条第4項で、
    (1) 鉄道・航路を通じた計算経路が環状線1周となる場合は、環状線1周となる駅の前後の区間の鉄道の営業キロ、擬制キロ又は運賃計算キロを打ち切って計算する。
    (2) 鉄道・航路を通じた計算経路の一部若しくは全部が復乗となる場合は、折返しとなる駅の前後の区間の鉄道の営業キロ、擬制キロ又は運賃計算キロを打ち切つて計算する。
と定めている。したがって、JRグループの片道乗車券は、
  • 環状線一周を超えない
  • 途中で折り返さない
という2つの条件を満たす任意の駅間・経路に対して発売され、そのうち、発駅から着駅までの運賃計算距離が最も長いものが最長片道切符となる。
なお旅規64条4項には、1、2号に加えて第3号があって、その解釈によって九州内のルート選定が異なる。 その詳細は、「新幹線と在来線−同一路線扱いの虚構と矛盾」を参照。
[6] 全国を地域ブロックに分割し、メンバーが分担して各ブロックの最長ルートを求め、これを合算するという手法がとられた。 まず、本州と結ぶルートが一本しかない北海道と九州を本州から切り離した。 本州も右図の赤線(a-b)のように交差する路線が少ない地点で切断線をひくことにより、最終的に東北、関東・中部、近畿、中国(四国を含む)の4ブロックに分割した。 当時まだパソコンはおろか電卓もなく、「そろばんを駆使して」計算したという。
[7] 最長片道切符ルートの変遷1961-2007」に記載したとおり、彼らのルートは「最長」ではなかった。

改訂履歴
2005/02/23: 読者の方から『時刻表2万キロ』で省略されている行程の一部が『汽車旅12ヶ月』に記載されている旨教えていただき、「時刻表2万キロの旅全行程」を増補。
2006/10/08: 読者の方から『旅』2000年9月号「特集 宮脇俊三の世界」に路線ごとの乗車日が書かれた白地図が掲載されている旨教えていただき、『時刻表2万キロ』で省略されている路線の乗車日を「時刻表2万キロの旅全行程」に記載。また左沢線、長井線、赤谷線、魚沼線の乗車日を訂正。脚注6を追加。
2009/10/04: 佐藤良介「内田百闊「房列車の足跡」(『レイル』No.31 1996年1月所収)を参照して表1「阿房列車」全行程に加筆(なお、1950年11月2日から急行列車に愛称をつけたので、テキスト中に列車番号の記述しかないときも、愛称名に変更した)。「特別阿房列車」の帰途乗車した車両を1等車から2等車に訂正し(読者の方から指摘を受けました)、引用文を追加、脚注1を挿入(脚注の旧番号を1ずつ変更)。

初出 2005/02/19
最終更新 2009/10/04
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