ネットからシャトルへ-日本の鉄道旅客輸送の変質


ネットとシャトルといっても、バドミントンではなく、鉄道の話である。近年鉄道旅客輸送において次のような現象がみられるが、鉄道輸送に対する需要の変化に対応して、供給側の商品(列車)も変化していることを示している。
筆者はこれらを鉄道旅客輸送のネット型からシャトル型への変化と捉えている。この変化を、路線網を走る列車設定の変化とインフラとしての鉄道ネットワーク のほころびという、相互に関係する両面からたどり、最後に鉄道のネットワーク性を活かす道を考えたい。
目次
ネット型とシャトル型
  • 航空輸送と鉄道輸送
  • 鉄道におけるシャトル型輸送
  • 路面電車と地下鉄
  • 図1 航空路線と鉄道路線
    列車設定の変化
  • 輸送需要の構造変化
  • 汎用型から個別型列車設定へ
  • 列車運行距離の短縮
  • 直通列車・分割併結列車の整理
  • 列車設定の多様化
  • 図2 旅客輸送シェアの推移
    別表1 行先別列車本数推移
    図3 走行キロ別列車本数・平均走行キロ
    図4 急行「みちのく」の分割・併結
    鉄道ネットワークの形成とほころび
  • シャトルからネットへ
  • 国主導による全国路線網の建設
  • 新設路線は非ネットワーク型が主流
  • 鉄道ネットワークを構成する路線の廃止
  • 表1 開業時期別営業キロ
    別表2 1972年以降の開業路線
    別表3 1972年以降の廃止路線
    鉄道ネットワークを活かす道
  • 整備新幹線の見直し
  • 新交通システムに代わってLRTを
  • 接続のシームレス化

  • ネット化・シャトル化年表
    ・参考文献
    ・注 表 四階建て列車
    ・改訂履歴


    ネット型とシャトル型

    航空輸送と鉄道輸送

    航空輸送は、二地点間を結ぶシャトル型輸送が基本である。かつては、航続距離の制約から、南回りヨーロッパ線のように、各寄港地で乗客を乗降させる運航形態(ラウンドロビン方式)を取っていたが、現在は、ハブ&スポーク方式を採用し、途中寄港地がないノンストップ輸送がほとんどである。

    鉄道は、地表に設置された軌道上を運行する。個々の路線は、移動需要が存在する複数の地点を線で結んで建設され、複数の路線が平面上の鉄道網を構成する。列車は、単純な二地点間の往復ではなく、ポイントでつながっている路線網(線路がない海上も連絡船に設置されたレールにより移動し)縦横に運行しているという意味で、ネット型輸送といえるだろう。
     

    図1 航空路線と鉄道路線
    航空路線(シャトル型:ハブ&スポーク方式)
    鉄道路線(ネット型)

    これが鉄道と航空の輸送形態の基本的な違いである。それを端的に示すのは、時刻表の形式である。航空時刻表が発着空港のアルファベット順に出発・到着時刻を表示する「ABC方式」であるのにたいし、ブラッドショウ鉄道案内を元祖とする鉄道時刻表は、起点から終点までの列車の進行方向にそって各駅の発着時刻を一覧表示する[1]

    鉄道におけるシャトル型輸送

    鉄道旅客輸送がネット型からシャトル型へ変化していると言っても、鉄道の場合は航空輸送とは異なり、途中駅に停車しないノンストップ輸送を言うわけではない。

    鉄道におけるシャトル型輸送とは、ある列車群はほぼ一定の路線(区間)に運行され、ある路線(区間)を運行する列車はほぼ一定の列車群である輸送形態と定義する。究極的なシャトル型は、鋼索鉄道や新交通システムのように、列車と路線(区間)とが一対一に対応している状況、すなわち、列車はつねにその路線(区間)だけを運行し、その路線(区間)を運行するのは一種類の列車だ けという状況である。

    これに対してネット型とは、かつての国鉄がその典型例であるが、ある路線(区間)には異なったタイプの列車が運行し、ある列車は複数の路線(区間)にまたがって運行される輸送形態である。

    路面電車と地下鉄

    在来型鉄道でのネット型とシャトル型の違いは、路面電車と地下鉄を対比させてみるとわかりやすいだろう。東京都電は、最盛時の1962年には、総延長213.3キロの路線網を40系統の電車が運行していた。大都市の路面電車の特徴は、線路名称ではなく、系統名で呼ばれていたことだと思う。路面電車の路線も区間ごとに線路名称がついていたが、系統とは対応せず、旅客は系統名しか意識していなかった。ほとんどの路線(区間)に複数の系統が運行しており、須田町−万世橋間のように6系統が運行される区間もあった。

    各系統の電車は、交叉点でポイントを渡り、複数の路線にまたがって設定されたルートを走っていた。そのルートは、それぞれの旅客の異なった移動需要を全体として満たすように設定された。全区間を乗りとおす乗客は多くなかったが、1回乗車ごとの均一運賃だったため、ターミナル間を乗換えなしに結ぶルートを提供することが必要だった。軌道が敷設された道路を走るバスのようなものであったから、都電の系統の多くは、廃止後都バス路線に継承された。まさに路線網を縦横に走るネット型輸送の典型であった。

    一方営団・都営含めて12路線(系統)ある東京の地下鉄は、総延長キロ295.9キロ(都交通局が第2種事業者として運行する目黒−白金高輪間を含 まず)という最盛期の都電以上の路線網を有しているが、各系統が専用の線路を有し、近郊の地上線に乗り入れることはあっても、他の地下鉄路線に乗り入れる ことはなく、起終点間を折り返すだけのシャトル型輸送を行っている[2]

    近年ヨーロッパを中心に発達しているいわゆるLRTも、従来の路面電車と異なり基本的にシャトル型である。路線と各系統の運行区間とは、地下鉄のようにほぼ一対一の対応となっている。運賃体系は、1回乗車型であるが、ゾーン運賃制を採用し、制限時間内であれば乗換え自由である。なお、ベルギーのブリュッセルには、300万都市としては珍しく、地下鉄とともに従来型の路面電車網が併存している。都心部には地下の専用軌道(プリメトロ)を設けているが、各系統は路線をまたがって縦横に運行され、かつての東京都電と同様のネット型輸送を行っている。


    列車設定の変化

    輸送需要の構造変化

    鉄道は、かつて、国内の旅客輸送をほぼ独占し、全国を結ぶネットワークを有するナショナルな交通機関であった。図2に見るように、国内旅客輸送(人キロ)における鉄道のシェアは、1950年には90%を超え、うち国鉄が59%を占めていた。ところが、高度成長期に入るとモータリゼーションの進展や高速道路・空港の整備によって、輸送需要の構造が変化していく。国鉄の旅客輸送におけるシェアは、全国に特急網を拡充した1961年度に50%を割り、その後も大都市圏以外ではマイカーに、全国レベルでは航空網にシェアを譲り、年々低下していった。こうして鉄道は、中距離都市間大量高速輸送と大都市圏通勤輸送というその特徴が活かせる分野に特化し、リージョナルないしローカルな旅客輸送を担う存在に変化した。2000年には、鉄道のシェアは27%、JRのシェアは17%までに低下している。

    図2 旅客輸送シェアの推移

    国鉄は、新幹線が開業した1964年度に赤字に転落した。その後も赤字額は増大する一方で、1987年の分割民営化にいたる。国鉄改革が民営化にとどまらず、旅客会社の分割にまで至った背景には、輸送需要の構造変化により、全国一律での対応が難しくなったことがある。旅客会社の分割にはさまざまな案があったが、旅客流動の実態を考慮し、最終的に6分割となった。この各旅客会社のテリトリーは、本州三社は98%、三島会社は95-99%の旅客流動が自社内で完結するという想定のもとに定められた[3]

    輸送サービス供給者としての鉄道事業者は、輸送需要の変化に対応した輸送形態を設定せざるをえない。それが、鉄道輸送におけるネット型からシャトル型への変化となった。各路線・各列車が個別的な需要を満たし、二地点間を往復する自己完結的輸送、すなわちシャトル型輸送にならざるをえないのである[4]。民営化されたJR各社とも、中距離の都市間輸送に特急を投入するとともに、大都市近郊路線を中心に駅の新設や列車のフリークエント化により輸送需要の掘り起こしにつとめた[5]

    汎用型から個別型列車設定へ

    かつての鉄道は、汎用型の交通機関であり、列車(商品)は汎用的な需要を満たすべく設定されていた。ネット型からシャトル型への変化は、別の言い方をすれば、最小公倍数型列車設定から最大公約数型列車設定への変化である。従来の汎用型列車は、多岐にわたる旅客の輸送需要を一つの列車で満たそうと設定された。シャトル型列車設定は、多くの旅客の輸送需要の共通する部分を取り出してパターン化し、各種の需要パターンに一定の規模で対応しようとするものである。

    そこでは、到達時間の短縮とともに定時間隔でのフリークエント運行が重要である。国鉄は、1972年10月のダイヤ改正で、このコンセプトを明確にした「L特急」を設定した。

    1964年10月に開業した東海道新幹線は、鉄道のシャトル化に向けて、ひとつのエポックとなった。日本で最大の都市間旅客輸送需要が存在する東海道に、在来線の鉄道網から独立した標準規の高速鉄道を新設し、東京−新大阪間を往復するだけのシャトル型輸送を行った。「ひかり」が首都圏と京阪神間の移動需要を満たすとともに、大阪以西への旅客も、新大阪駅発着の乗り継ぎ列車を設定して取り込んだ。また「こだま」によって太平洋ベルトの人口稠密地帯に点在する中核都市間の中距離輸送を担ったのである。

    動力分散方式の新幹線のプロトタイプとなったのは、1958年10月運行を開始した151系電車特急「こだま」であった。同時に、機関車牽引の客車列車であるが、固定編成の寝台特急「あさかぜ」が登場した。これも汎用型から、個別型の列車設定のはしりといえるだろう。「あさかぜ」が画期的だったのは、関西を深夜に通過するダイヤとして、関東と広島以西の輸送需要を満たすことに特化したことである。それ以前に院電、省線電車、国電、E電と続く大都市圏の通勤電車がシャトル化していた。

    列車運行距離の短縮

    このようなシャトル型列車設定への変化を、東海道線と常磐線を運行する列車の変化から見る。別表1は、東海道本線・大船−藤沢間と常磐線・取手−藤代間を通過する下り列車について、行先別の列車本数、平均走行キロの推移を示したものである。それぞれ、1956年11月ダイヤ、北陸・山陰・奥羽線などに特急を新設した1961年10月改正ダイヤ、更に全国に特急網を拡大した1968年10月の「よんさんとう」改正ダイヤ、鉄道100年を迎えた1972年10月改正ダイヤ、国鉄時代の最後の改正となった1986年11月ダイヤ、東北新幹線八戸延伸に伴って実施された2002年12月の改正ダイヤ、そして2007年3月改正の現行ダイヤである。いずれも、平日ダイヤでの不定期列車を除く本数である。

    別表1-1から、列車の運行距離が年を経るにつれて短くなってきたことがわかる。汎用型から個別型への列車設定の変化は、長距離列車を減少させ、フリークエントに二地点間を往復する中短距離列車を増加させたといえる。長距離列車の終焉は普通列車にはじまり、夜行寝台特急に及んだ。航空運賃の相対的低価格化と高速道路の夜行バスによってこの傾向はいっそう強まった。

    1956年には、東京・門司間を走る普通列車があった。1961年、東海道線の最長距離普通列車は姫路行143レとなる。65年10月改正で大阪行 となり、68年10月、143Mと電車化され美濃赤坂行となった。翌69年の改正で大垣行となる(その後列車番号が変わり、現在の「ムーンライトながら」となる)。1956年には、九州に直通する列車が9本あったが、徐々に減り、2006年3月改正で1本だけになった。

    常磐線では、1956年には上野発青森行の普通列車があったが、68年10月改正で仙台行となった。取手−藤代間を通過する普通列車で、最長距離を走行するのは高萩行になってしまった(2005年7月にはいわき行が10本あったが、年改正で廃止となった)。特急・急行を含めた青森行の列車は、61年の8本から徐々に減ってゆき、93年12月の改正で「ゆうづる」が臨時列車となり、94年12月に完全に廃止されゼロとなった。

    図3に、走行キロ別列車本数と平均走行キロの推移をグラフで示す。

    図3 走行キロ別列車本数・平均走行キロ

    列車の平均走行距離は、1956年から2007年の間に、東海道線では438キロから126キロに、常磐線では340キロから128キロに、それぞれ大幅に減少した[6]

    東海道線は新幹線の開業(1964年)によって長距離優等列車がシフトしたから、1961年と68年の間に平均走行距離が大きく短縮したのは当然の 成り行きである。しかし、1956年から61年への推移及び1968年以降の推移を見ても、短縮傾向は一貫している。常磐線は並行する新幹線が存在しないが、仙台以北への直通列車の減少・廃止は、1982年の東北新幹線開業の影響を受けている。それを捨象しても、列車の運行距離の短縮化傾向は、とくに茨城県南部が首都圏の通勤圏に組み込まれたことによって顕著である。

    一部の寝台特急を除けば、全区間を通して長距離列車に乗る旅客は少なかった。とくに昼行の長距離列車では、主要駅ではほとんどの乗客が降り、あらたに乗車する客と入れ替わってしまう。単に一つの列車が長い距離を運行しているというだけであって、列車の性格は区間ごとに異なっていた。長距離列車の運行区間が旅客の需要にあわせて分割されたわけで、汎用型の列車設定から個別的需要を満たすための変化といえるだろう。

    直通列車・分割併結列車の整理

    別表1は、列車の行き先が整理されてきたことも示している。かつて、本州と九州の各府県はすべて、東京と直通列車で結ばれていた。高度成長時代に地方から東京に移り住んだ人たちにとって、故郷への直通列車は、郷愁を誘うものであっただろう。東海道線には、東京から関西線・湊町、参宮線・鳥羽、北陸線・金沢や呉線経由広島への直通列車が運転されていた。奥羽線経由の青森行下り急行「津軽」は、出世列車と呼ばれた。集団就職や出稼ぎのため普通列車で東京に出た人たちが、故郷に錦を飾るときに乗ったのが「津軽」だった。

    青函トンネルと瀬戸大橋の完成によって、北海道と香川県が東京からの直通列車で結ばれるようになったが、福井、三重、奈良、和歌山、長崎、宮崎、鹿児島各県への直通列車は廃止された。

    線路容量が不足している中で、全国各地に直通する列車を設定するためには、分割と併結が必須だった。国鉄時代は、分割・併結を繰り返す二階建て三階建て列車というのが珍しくなかった。別表1に見るように、1968年には東海道線と常磐線に三階建て列車があった。東京発紀伊勝浦・奈良・鳥羽行の急行「紀伊」と上野発鳴子、宮古、弘前行の急行「みちのく」である。

    「みちのく」は、1965年10月のダイヤ改正で設定された上野発鳴子、盛、宮古、大鰐行の四階建て[7]の急行「第1みちのく・陸中」の後継列車であったが、四階建て時代の「第1みちのく・陸中」以上に、複雑な分割・併結を行った。これを図3に示す。

    図4 急行「みちのく」の分割・併結

    「みちのく」は、小牛田で鳴子行を分割し二階建てになり、花巻で宮古行を分割する。宮古行には盛岡発の「はやちね2」が釜石まで併結される。一方東北線を北上する弘前行は、盛岡で秋田行の急行「陸中」を併結し、再び二階建てになる。好摩から花輪線に入り、大館で「陸中」を分割し、単独で弘前に到着する。秋田行「陸中」には青森発の「むつ」が併結される。「みちのく」にからむ各列車の分割・併結も図に見るように複雑である。

    分割・併結の容易なディーゼルカーの特徴を駆使して、こんなダイヤを設定したのである。しかし、人は自分で乗り換えられるのだから、直通することは必須とはいえないのだ。列車が直通する路線が整理された結果、分割・併結する列車は減少し、現在は2回以上の分割・併結をする列車はない[8]

    列車設定の多様化

    個別需要に対応するシャトル型列車設定は、列車設定の多様化をもたらす。これは、列車によって停車駅パターンが異なることにも現れている。従来特急停車駅といえば、格式のある大きな駅であり、特急停車駅を通過する急行・普通列車はなかった。ところが、「湘南ライナー」は、横浜駅に停車しない。横浜駅を通過する列車はこれが初めてだろう。また戸塚駅には「成田エクスプレス」の一部が停車するが、他の特急はもとより快速列車「アクティー」も通過する。これも列車が特定の需要を満たすため設定されるという変化を示す。

    国鉄時代の車輌は、特急型、急行型、近郊型、通勤型の4区分で、全国的にほぼ同一規格の車輌が使われていた。路線による違いは、101系や103系通勤型電車の塗色くらいであった。特急型車輌は、直流・交直流電車とディーゼルカーの差はあってもアコモデーションは同じで、塗色もいわゆる国鉄色だけだった。JRになって、各社は競って独自の新型車輌を誕生させた。JR最初の特急車輌は、1988年3月のダイヤ改正で、JR九州の特急「有明」に使用された783系「ハイパーサルーン」である。JR東日本は、1989年3月の651系「スーパーひたち」、1989年4月の251系「スーパービュー踊り子」と各線に特急を新設するごとに専用車輌を投入した。


    鉄道ネットワークの形成とほころび

    シャトルからネットへ

    鉄道は初めからネット型輸送をしていたわけではない。1872年10月14日、新橋−横浜間に日本初の鉄道が開業した当時は、当然ほかには路線がなく、両駅間を往復するシャトル型輸送を行っていた。1885年3月日本鉄道品川線(現山手線)が開業し、日本鉄道の列車が赤羽から品川を経由して新橋まで乗り入れを開始した。これが、シャトル型からネット型輸送の始まりだろう。その後、富国強兵の手段として鉄道が認識され、国の主導によって全国ネットワークが形成され、ネット型輸送に変化してゆく。列車本数の推移を見た東海道線と常磐線におけるネットワークの形成過程は次のとおりである。

    開業当時、新橋−横浜間の路線は東海道線を構成する一部とは想定されておらず、中山道に建設される予定の東京−京都間路線の支線としての位置付けであった。幹線は、戦時に攻撃されやすい海岸沿いを避けて設置するという軍部の主張からである。それが東海道経由に変更されたのは、1886年7月である。 それまでに中山道幹線を構成する部分(熱田−木曽川、大垣−長浜、膳所−神戸間)は開業していたが、この決定により横浜−熱田間が着工され、東西から順次延伸が進み、1889年新橋−神戸間が全通する。1934年丹那トンネルの開通により従来の御殿場経由から現在の路線となった。

    常磐線は、1889年水戸鉄道が友部−水戸間を、1896年12月日本鉄道が田端−土浦間を開業した。その後 1898年8月までに岩沼まで全線が 開業する。1905年4月には日暮里−三河島間の路線が開通し、列車は上野発となる。

    国主導による全国路線網の建設

    このネットワークの形成過程では、鉄道敷設法と鉄道国有法が重要である。鉄道の官設官営を原則としていた明治政府は、西南戦争(1877年)以降の財政難から、やむなく民間資本による鉄道建設を認める。華族・士族資本の導入を目的として1881年日本鉄道に山手線、高崎線、東北線などの建設の特許を与えた。その後、官営鉄道とともに私鉄による、幹線鉄道網の建設が進んだ。

    あらためて国主導による鉄道建設を定めたのが、1892年の第1次鉄道敷設法であった。この法律は、北海道を除く幹線を中心とする33路線の敷設を定め(北海道の鉄道建設については、別途北海道鉄道敷設法を制定)、そのうち急を要する第1期線として、主として軍事的観点から9路線が選定され、1893年4月の北陸線、奥羽線から順次着工された。

    さらに鉄道バブルの崩壊で買収を望んだ資本家と、政府による統制の必要性を認識した軍部の思惑が一致して、1906年鉄道国有法が公布される。同法は、「一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス、但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハコノ限リニアラズ」と定め、これにもとづき1906年10月から1907年9月にかけて、日本鉄道(現東北線)や山陽鉄道(現山陽線)など17の鉄道会社の約4,800キロの路線が買収された[9]

    「建主改従」政策を推進する政友会内閣は、1922年、改正鉄道敷設法を制定した。旧法のもとでほぼ完成した幹線鉄道網を補完する支線149路線、10,218キロの建設を定めたものであり、政治家の我田引鉄による路線網の拡充が進んだ[10]

    1959年7月、幹線系としては最後に紀勢線が全通し、日本の鉄道ネットワークが完成する。しかし、鉄道開業から2世紀目に入った1972年頃を節目として、日本の鉄道ネットワークはほころび始める。

    新設路線は非ネットワーク型が主流

    表1に、2006年12月末時点に存在する鉄道路線の営業キロを、ほぼ等間隔の4期に区分した開業時期と鉄道の種別とのマトリックスで示す。第T期は鉄道開業の1872年から1905年まで、第U期は鉄道国有法が交付・施行された1906年から1938年まで、第V期は関門トンネルが貫通した1939年 (開業は1942年)から1971年まで、第W期は鉄道開業100周年の1972年から現在までである。

    表1 開業時期別営業キロ (2007年3月末現在)

      T(1872-1905) U(1906-1938) V(1939-1971) W(1972-2007) 合計
     一般 7,586.2 99.6% 12863.4 97.7% 1,621.3 61.2% 1,660.6 39.2% 23,731.5 85.8%
     貨物 16.4 0.2% 126.7 1.0% 190.0 7.2% 76.8 1.8% 409.9 1.5%
     路面 15.1 0.2% 137.3 1.0% 26.9 1.0% 1.4 0.0% 180.7 0.7%
    ネット型計 7,618.1 100.0% 13,127.4 99.7% 1,838.2 69.4% 1,838.8 41.1% 24,322.1 87.9%
     新幹線 0.0 0.0% 0.0 0.0% 552.6 20.9% 1,834.5 43.3% 2,387.1 8.6%
     地下鉄 0.0 0.0% 21.8 0.2% 218.1 8.2% 468.6 11.1% 708.5 2.6%
     鋼索 0.0 0.0% 13.8 0.1% 7.9 0.3% 0.8 0.0% 22.5 0.1%
     モノレール 0.0 0.0% 0.0 0.0% 19.9 0.8% 93.2 2.2% 113.1 0.4%
     新交通 0.0 0.0% 0.0 0.0% 6.6 0.2% 95.4 2.3% 102.0 0.4%
     無軌条 0.0 0.0% 0.0 0.0% 6.1 0.2% 3.7 0.1% 9.8 0.0%
    非ネット型計 0.0 0.0% 35.6 0.3% 811.2 30.6% 2,496.2 58.9% 3,343.0 12.1%
    合計 7,617.7 100.0% 13,163.0 100.0% 2,649.4 100.0% 4,235.0 100.0% 27,665.1 100.0%
    27.5%
    47.6%
    9.6%
    15.3%
    100.0%
    * 営業キロは、線路の所有者(第1種、第3種事業者)を基準に計上し、複数の事業 者が運行している区間を各事業者ごとに重複計上することはしない(阪急、阪神、山陽が同一線路を運行している神戸高速鉄道線は、神戸高速鉄道一本で計上)。但し、成田高速鉄道が第3種事業者である区間は、軌間が異なる単線の線路をJR東日本と京成が個別に使用しているので、それぞれに計上している。
    ** 開業後線路の付け替えがあった区間は、すべて当初の開業日によった。『鉄道要覧』記載の開業日は、東海道線・膳所−京都間、根室線・落合−新得間等は新線の開業日を記載し、北陸線・敦賀−今庄間、東北線・野内−青森間等は旧線の開業日を記載している。

    第T期に建設された路線は、現在のJRの幹線が主体であり、当然ながらすべてがネット型路線であった。第U期になると、JRの準幹線と大手私鉄の路線に加えて、東京(銀座線)・大阪(御堂筋線)の地下鉄やケーブルカーなど非ネット型路線が開業したが、その比率はわずか0.3%であった。新幹線、モノレールや新交通システム等の、既存の鉄道路線網に乗り入れることができないシャトル型の路線が本格的に建設されたのは、第V期の終盤からである。

    第W期に開業した路線は、非ネット型が過半を占める。山陽、東北、上越、北陸、九州と順次開業した新幹線が40%強であり、続いて地下鉄が10%を超える。モノレールや新交通システムなど、純シャトル型の軌道系交通機関が4%強ある。

    第W期に開業した旅客路線を別表2に示す。ネット型に分類した国鉄・JRの一般路線でも、全国鉄道ネットワークを最終的に完成させた青函トンネル(津軽海峡線)、瀬戸大橋(本四備讃線)の2路線を除けば、武蔵野線、京葉線、埼京線等の大都市圏の通勤路線の建設が主体であった。

    在来型の新線には、ほかに、成田空港(JR東・京成、1991年3月)、新千歳空港(JR北、1992年7月)、関西空港(JR西・南海、1994年6月)、宮崎空港(JR九、1996年7月)、羽田空港(京急、1998年11月)、中部国際空港(名鉄、2005年1月)とあいついで開業した空港連絡線がある。成田空港と関西空港では、第3種事業者が所有する路線にJRと私鉄がともに第2種事業者として運行した。これも、鉄道が航空輸送との補完関係を見出し、都心と空港間の需要を取り込むシャトル型輸送を開始したという点で注目すべきだろう。また福岡空港には、1993年3月福岡市営地下鉄が乗り入れた。また、2004年12月開業の羽田空港第2ターミナルには東京モノレールが延伸し、2002年2月の開業の神戸空港は、神戸神交通が乗り入れた。

    鉄道ネットワークを構成する路線の廃止

    一方1972年以降廃止された旅客路線を別表3に 示す(旅客営業のみを廃止した路線を含む)。総延長3,617.7キロの廃止路線のほとんどがネット型路線で、シャトル型路線で廃止されたのは、旅館が経営していた鋼索鉄道4路線(計0.4キロ)とモノレール・新交通システムの4路線(他に空港ターミナルの移転に伴う線路の付け替えがあった東京モノレールの一部区間を含み、計3.9キロ)に過ぎない。

    廃止路線の9%を路面電車が占める。都市内で典型的なネット型輸送を行っていた六大都市の路面電車は、1977年10月の京都市電を最後に、都電荒川線を残してすべて廃止された。

    1981年3月の国鉄経営再建促進特別措置法の施行により、特定地方交通路線に指定された路線が相次いで廃止された[11]。廃止路線は、地方の盲腸線だけでなく、とくに北海道を中心として、名寄本線などネットワーク(環状線)を構成する幹線系にも及んだ。いったん私鉄や第三セクターなどに転換渡された路線も、1998年の弘南鉄道の旧黒石線を皮切りに、下北交通、のと鉄道、北海道ちほく高原鉄道、神岡鉄道と廃止が相次ぐ。

    また新幹線の開業にともなう平行在来線の廃止または経営移管によって、横川−篠ノ井間、盛岡−八戸間及び八代−川内間がJRのネットワークから外れた。

    このように、路線の廃止と新設とが相互に関連して鉄道ネットワークがほころんでゆくのだが、その過程で特徴的な事態を挙げる。


    鉄道ネットワークを活かす道

    鉄道需要の変化によってもたらされたシャトル型輸送は必然の流れだが、ほころびを見せている鉄道ネットワークをこのまま崩壊させて良いのか。鉄道はネットワークによって生きる。線路がつながっているメリットを活かしてこそ、鉄道の利便性は高まるのである。その方策として、次の3点をあげたい。

    整備新幹線の見直し

    整備新幹線の建設は、在来線ネットワークの崩壊をもたらす。新幹線整備法(1972年)は、国(国土交通大臣)が基本計画を定め(第4条)、建設線について、その営業主体及び建設建設主体を指名し(第6条)、整備計画(第7条)を決定し、建設主体に建設を指示する(第8条)という国主導による新幹線建設を定めており、鉄道敷設法と同様の悪法である。鉄道敷設法に基づき赤字路線を建設し続け、国鉄の分割民営化に至ったことに対する反省がまったくみられない。

    すくなくとも、在来線を廃止するか、JRから経営分離をせざる得ないほど需要が見込めない整備新幹線をフル規格で新設する必要はない。三線方式かフリーゲージトレインによる新在直通方式で建設し、建設費を抑制するとともに、在来線のネットワーク性を活かすべきではないか。整備新幹線は開業したが、新幹線の駅ができなかった小諸や阿久根は、在来線の第3セクター移管で、上野・長野や博多・鹿児島に直通する在来線の特急もなくなった。市民は、整備新幹線の開業をどう思っているのだろうか。

    新交通システムに代わってLRTを

    別表2で見たように、日本では軌道系中量交通機関として、多くのモノレール・新交通システムが建設された。これは、国際的に見ると特異な傾向であり、欧米の多くの都市では都心部の交通渋滞の緩和と環境負荷の軽減のために、LRTを積極的に整備し、マイカーからの転換を図っている。

    LRTのモノレールや新交通システムに対するメリットは、次の点があげられる。

    鉄道ネットワーク活用という観点からは、LRTには、クローズド方式のシャトル型である新交通システムと異なり、既存鉄道路線網に乗り入れられるというメリットがある。また貨物線等の既存インフラを活用して、LRTを建設することも可能である[12]

    日本でモノレール・新交通システムが普及したのは、道路との一体整備という観点から道路財源を原資とする旧建設省の補助金が存在するためである。「都市モノレール建設のための道路整備事業に対する補助制度」に基き、地方公共団体または第三セクターがモノレール・新交通システムを道路上に敷設するにあたって、インフラ部分(支柱、桁等)の建設に対し全建設費の59.9%を限度とする補助金が出る。同じく道路上に敷設する軌道であるLRTの整備にはこのような補助金は存在しない。総合的交通政策に基く、都市の公共交通整備に対する公的補助の仕組みが必要である[13]

    接続のシームレス化

    国土交通省は、「利用しやすく高質な鉄道ネットワークの構築」をめざし、事業者相互間の接続や連携の不備を改善しようと、1999年5月の鉄道事業法の改正(2000年3月1日施行)で鉄道事業者が他の事業者との乗継円滑化措置を講ずる努力義務を定めた。その具体的措置として2002年鉄道事業法施行規則を改正し、「他の鉄道事業者との間の相互直通運転又は同一のプラットホームでの対面による接続」を盛り込んだ。

    まずは、同一事業者の路線間で同一ホームでの対面乗り換えの推進が必要だろう[14]。これによって、緩急結合運転とともに分岐駅における交互直通運転が可能となり、鉄道の利便性を向上することができる。

    国鉄東海道・山陽線の草津−西明石間は、1937年の阪神間の複々線完成以降、列車線と電車線の方向別複々線運転を行っている。快速の停車駅で各停列車から快速列車に、同一ホームで乗り換えることができる。列車によっては列車線・電車線をアクロバチックに乗り移るダイヤ設定により到達時間を短縮している。首都圏では、1956年11月品川−田端間で山手線・京浜東北線電車を複々線化したとき、方向別運転とした。また、それ以前から御茶ノ水や新宿での同一ホーム対面乗換を行っていた。

    1960年代後半から70年代初めに行ったいわゆる「五方面作戦」の複々線化[15]では、いずれも快速線と緩行線の路線別複々線とし、方向別としなかった。快速線から緩行線への乗換が別ホームなので、階段を乗降し跨線橋や地下道を渡る必要がある。中野駅や松戸駅のように同じ行き先に向かう列車の発着ホームが複数あるの は、まったく不便である。これらの駅で線路の立体交差を設ければ方向別運転が可能となる。これを複々線建設時に行えば、最少の費用ですんだのである。赤羽駅の改造も、方向別を採用する好機だったのだが、路線別のままである。五方面作戦で複々線化された区間で、同一ホーム対面乗換が可能となったのは、戸塚駅での東海道線電車と横須賀線電車の乗り換えだけである。

    分岐駅では、JR東西線の開業にあたって尼崎駅で行った交互直通運転を普及すべきだろう。尼崎駅の緩行線上りホームには、東海道線神戸方面からの電車と福知山線宝塚方面からの電車が発着し、それぞれがほぼ交互に東海道線京都方面とJR東西線経由片町線方面に向けて運転される。西ノ宮から四條畷に向かう旅客は、ほぼ50%の確率で直通電車が利用でき、直通しない電車に乗車したときも尼崎駅のホームで対面乗り換えができるのだ[16]。首都圏では、営団有楽 町線の小竹向原で和光市と西武線からの電車を新木場行と新線池袋行に振り分けている。これは、新線が13号線として渋谷まで延長され、東急東横線と乗り入れるようになれば、さらに利便性が増す。

    交互直通方式は、京葉線の開業時に蘇我駅で取り入れるべきであった。蘇我−千葉みなと・本千葉間と蘇我−鎌取・浜野間の列車本数はほぼ一致する。京葉線の列車を蘇我折り返しにせず、千葉方面からの列車と交互に外房線・内房線に振り分け直通させるのである。しかし、京葉線のホームは別に設置してしまった。外房・内房線から京葉線への乗り換えは跨線橋を渡らなければならず、接続ダイヤの設定も悪く、きわめて不便である。なお、2007年3月のダイヤ改正で、夕方のラッシュ時だけだが京葉線から外房・内房線への直通列車が多数設定された。

    交互直通方式が難しいケースでも、少なくとも同一ホームの対面乗換は実施すべきである。営団は、南北線の開業時に飯田橋駅か市ヶ谷駅のホームを赤坂見附のように二階建てにして、同一ホームで有楽町線との対面乗換ができるようにすべきであった。

    ネットワーク復活の兆し

    鉄道ネットワーク復活の兆しも見られる。既存インフラを活用し、最小の投資でネットワークの拡充が図られている。2002年の湘南新宿ライン開業は、貨物線を活用して多地点間の相互乗り入れネットワークを実現した。2006年3月には、JRと東武の新宿・東武日光間相互乗り入れも実現した。

    相鉄は、西谷から横浜羽沢に2.7kmの短絡線を新設し、JR東海道貨物線を経由して湘南新宿ラインの新宿駅に乗り入れる計画である。さらに、横浜羽沢から新横浜経由日吉まで線路を延長し、東急東横線経由東京地下鉄副都心線に、目黒線経由東京地下鉄南北線・埼玉高速鉄道および都営地下鉄三田線に、それぞれ直通する計画もある。JR乗り入れは2015年、東急乗り入れは2019年の開業を目指しており、それぞれ、都市鉄道等利便増進法に基づく「速達性向上事業認定」の認定を受けた[17]

    2006年4月、富山ライトレールが開業した。北陸新幹線開業時に経営分離するとしている北陸線の支線のうち、富山港線を第三セクターに移管し、市街地に路面の新線を建設してLRT化したものである。将来は、電圧の違いなど解決すべき点はあるが、富山地方鉄道市内線との乗り入れによる都心直通を行うべきだろう。吉備線についても同様の計画があるが、これも岡山電軌との直通により、利便性の向上が図れる。

    2007年3月、PASMOがデビューし、JRグループのSuicaとの相互使用が開始された。首都圏のJR・私鉄・公営交通が1枚のカードでシームレスに乗り継げるようになった。このような、ハード面・ソフト面での接続のシームレス化によって、鉄道ネットワークの利便性が向上するのである。


    ネット化・シャトル化年表

    このページで取り上げた鉄道輸送のネット化(N)、シャトル化(S)に関連する事項を年表で示す。すべて筆者の主観的分類である。なお、ネットワークを形 成する方向はN、崩壊する方向はSとしているため、「ネット型輸送」、「シャトル型輸送」の実態とは一致しない部分がある。
     
    日付 N/S 事項
    1869(M 2)/11/10 N 鉄道建設の廟議決定(東京−京都間の幹線及び東京−横浜間、京都−神戸間、琵琶湖畔−敦賀間の3支線の建設 計画)
    1872(M 5)/06/12 S 品川−横浜間仮営業開始(初の鉄道)
    1872(M 5)/10/14 S 新橋−横浜間正式開業
    1883(M16)/07/28 S 日本鉄道・上野−熊谷間仮営業開始(初の私鉄)
    1885(M18)/03/01 N 日本鉄道・赤羽−品川間開業、新橋に乗り入れ官鉄との直通運転開始
    1889(M22)/07/01 N 東海道線・深谷(関が原-長浜間)−米原−馬場(現膳所)開業、新橋−神戸間全通
    1891(M24)/09/01 N 日本鉄道・盛岡-青森間開業、上野−青森間全通
    1892(M25)/06/21 N 鉄道敷設法公布
    1895(M28)/02/01 S 京都電気鉄道開業(初の電気軌道)
    1903(M36)/08/22 N 東京電車鉄道・品川−新橋間開業、以降同社及び東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社が東京市内に路面電車網拡充(三社は1906/09/11合併し東京鉄道となり、1911/07/31東京市に買収される)
    1904(M37)/08/21 S 甲武鉄道・飯田町−中野間に電車運転開始(鉄道による初の電車運転)
    1905(M38)/04/12 S 阪神電鉄・西梅田−神戸葺合(三宮)間開業(初の都市間電車運転)
    1906(M39)/04/19 N 鉄道国有法公布(4/20施行)、全国17の私鉄の路線約4,800キロを買収
    1912(M45)/06/15 N 初の「特急」1、2列車を新橋−下関間に設定、関釜連絡船を経由してアジア大陸の鉄道と連絡
    1919(T 8)/03/01 N 中央線・東京−万世橋間開業、中野−東京−品川−新宿−上野間の「の」の字運転開始
    1922(T11)/04/10 N 改正鉄道敷設法公布(4/11施行)
    1925(T14)/11/01 N 神田−上野間開業、山手線の環状運転開始
    1927(S 2)/12/30 S 東京地下鉄・上野−浅草間開業(初の地下鉄)
    1930(S 5)/03/15 S 東京−横須賀間に電車運転開始(初の高速電車)
    1930(S 5)/10/01 N 特急「燕」、東京−神戸間で営業運転開始
    1934(S 7)/12/01 N 丹那トンネル、岩徳線、有明線の開通にともない、東海道線、山陽線、長崎線の運転系統を変更
    1942(S17)/06/11 N 関門トンネル完成。貨物営業は7/1、旅客営業は11/15開始
    1943(S18)/04/01 N 小野田鉄道(小野田線・小野田−小野田港間)を買収。以降43、44年に22私鉄1,067キロを「戦時」買収
    1949(S24)/06/01 N 日本国有鉄道法の施行により日本国有鉄道(JNR)設立
    1956(S31)/11/19 N 品川−田端間で山手線・京浜東北線電車の方向別複々線運転開始
    1958(S33)/10/01 S 国鉄ダイヤ改正、固定編成の特急「こだま」・「あさかぜ」登場
    1959(S34)/07/15 N 紀勢本線全通、日本の幹線鉄道ネットワーク完成
    1960(S35)/12/04 N 都営地下鉄と京成電鉄、押上で相互乗り入れ開始
    1961(S36)/11/01 N 国鉄ダイヤ改正、宇野・北陸・山陰・奥羽・羽越・信越・函館各線に特急新設
    1964(S39)/10/01 S 東海道新幹線(東京−新大阪間)開業
    1968(S43)/10/01 N いわゆる「よんさんとう」ダイヤ改正、特急網を全国に拡大
    1970(S45)/05/18 S 新幹線整備法公布(6/18施行)
    1971(S46)/04/20 S 常磐線を複々線化、快速運転開始。北千住・綾瀬間は、快速線が国鉄、緩行線が営団と分割所有される
    1972(S47)/10/02 S 国鉄ダイヤ改正、「ひばり」、「とき」などを「L特急」に指定
    1972(S47)/11/12 S 東京都電は、荒川線を残し全線廃止
    1975(S50)/03/10 S 山陽新幹線(新大阪−博多間)全通
    1980(S55)/10/01 S 国鉄初の減量ダイヤ改正。寝台特急の削減・区間短縮を実施、急行を大幅に整理
    1980(S55)/12/27 S 国鉄経営再建促進特別措置法公布(81/3/11施行)、特定地方交通線の廃止を決定
    1981(S56)/10/01 N 石勝線開業
    1982(S57)/06/23 S 東北新幹線(大宮−盛岡間)開業。このあと7/1の堀江航路の廃止まで「最長片道きっぷ」が最も長かった時期である
    1982(S57)/11/15 S 上越新幹線(大宮−新潟間)開業
    1983(S58)/03/22 S 筑肥線博多・姪浜間廃止。福岡市営地下鉄開業、筑肥線が乗り入れ
    1985(S60)/07/26 S 国鉄再建監理委員会国鉄改革に関する意見を首相に提出(10/11閣議決定)
    1987(S62)/04/ 1 S 国鉄分割民営化によりJRグループ誕生(旅客6社、貨物1社)。鉄道事業法施行
    1988(S63)/03/13 N 青函トンネル(津軽海峡線)開業
    1988(S63)/04/10 N 瀬戸大橋(本四備讃線)開業
    1991(H 3)/03/19 S 成田空港線開業、「成田エクスプレス」運行開始
    1992(H 4)/07/01 S 山形新幹線(福島−山形間)開業、新在直通運転開始
    1993(H 5)/10/26 S JR東日本株式上場
    1994(H 6)/06/15 S 関西空港線開業、「はるか」、「ラピート」運転開始
    1996(H 8)/01/10 S JR北海道、JR四国、JR九州が運賃改訂。JR各社の一律運賃体系が崩れる
    1997(H 9)/03/08 N JR東西線開業、尼崎駅で東海道線神戸方面・福知山線との交互直通方式を実施
    1997(H 9)/10/01 S 北陸新幹線・高崎−長野間開業、横川・軽井沢間廃止、軽井沢・篠ノ井間第3セクター化
    2001(H13)/12/01 N 湘南新宿ライン開通、東海道線・横須賀線と東北線・高崎線との間で、多地点間の直通運転開始
    2001(H13)/06/22 S JR東日本、JR東海、JR西日本純民間会社化
    2002(H13)/12/01 S 東北新幹線八戸延伸開業。盛岡−八戸間第3セクターに移管
    2004(H15)/03/13 S 九州新幹線開業。八代−川内間第3セクターに移管
    2006(H18)/04/29 N 富山ライトレール開業
    2007(H19)/03/18 N PASMOデビュー、Suicaとの相互乗り入れ開始

    参考文献
    鉄道百年略史編さん委員会「鉄道百年略史」1972/10、鉄道図書刊行会
    池田光雅編著「鉄道総合年表 1972-93」1993/08、中央書院
    大久保邦彦・三宅利彦・曽田英夫編「鉄道運輸年表」1999/01、JTB


    [1] JALの国際線時刻表は、ブラッドショウ式である。途中寄港が一般的だった時代の名残だろう。逆に、鉄道時刻表にも、イギリスのABC RailwaysGuideのように発着駅で表示する形式がある(ただしロンドンと各都市との相互間のみを記載)。一般旅行者は、通過する路線に興味がなく、目的地までの時刻を調べたいのだから、こちらのほうが見やすいのかもしれない。欧州では日本のように鉄道時刻表が普及しておらず、一般旅行者は駅の出札窓口で係員に尋ねている。自動券売機が普及していないこととあいまって、出札口に長蛇の列ができ、いつもいらいらさせられる。
    [2] 地下鉄がシャトル型であるのは、日本だけでなく海外の大都市においても共通している。その中でニューヨークの地下鉄だけが特殊で、都心部のマンハッタン島では、複数の系統(快速・緩行)が同じ路線(複々線)を運行するネット型輸送を行っている。ニューヨークは路面電車の時代を経ず、いきなり地下鉄が建設されたことに関係があるのかもしれない。なお東京地下鉄でも、臨海部で行われる花火大会や年末年始のイベント時に、有楽町線・南北線の両市ヶ谷駅や千代田線霞ヶ関・有楽町線桜田門を結ぶ短絡線を経由して臨時列車が運行され、例外的にネット型輸送を行っている。
    [3] 経営難が見込まれた三島会社の経営基盤を確保する補填措置として三島基金が設けられた。1996年の三島会社の運賃改訂により、全国統一運賃体系は崩壊した。
    [4] 本稿では、旅客輸送について述べているが、貨物輸送もコンテナ化、ヤードの廃止によって拠点間のシャトル型 輸送に変化している。鉄道貨物輸送は、高速道路網のトラックと内航海運の拡大により、実輸送量(トン・キロ)、シェアともに継続的に減少している。貨物駅が廃止され、幹線の各駅にあった貨物列車用退避線や引込み線も使われなくなった。私鉄の貨物輸送は秩父鉄道、三岐鉄道及びJR貨物が出資する各地の臨海鉄道等の貨物専業鉄道を除きほぼ絶滅した。大手私鉄で貨物輸送を継続しているのは、東武、相鉄、名鉄の3社だけである(2002年10月末現在)。
    [5] JR発足後に開設された駅(新線の駅を除く)は、141に上る(JR東日本28、JR東海14、JR西日本39、JR四国3、JR九州47、JR北海道13)。JR九州が駅の新設に積極的で、とくに5つの大学前駅を設置し(ほかに新田原を九州工大前に改称)、通学輸送需要の取り込みにつとめたことは注目に値する。
    [6] 2004年10月のダイヤ改正で、東海道線列車の平均運行距離がいったん増加した。JR東日本とJR東海間の直通列車(静岡・沼津行)が整理される一方、湘南新宿ラインに前橋発等の長距離列車が大増発されたためであった。ところが、2005年3月改正で九州行きのブルーとレインが1本だけになり、再び平均走行距離は減少した。一方常磐線では、常磐新線開業に対抗した2005年7月改正で、近距離の土浦行き、勝田行きの普通列車をそれぞれ1本ずつ削減(特急が増加)、いわき行き普通列車が1本増発され、平均走行距離は0.7キロ増加した。しかし、2007年3月のダイヤ改正でいわき行の普通列車が全廃され、平均走行距離が減少した。
    [7] かつて存在した四階建て列車は、次の3列車である。
    運行期間 列車名(運行区間) 四階建て区間
    1963/10-1965/09 くりこま3(仙台−盛岡)・むろね1(仙台−盛)・たざわ1(仙台−秋田)・もがみ(仙台−酒田) 上野−小牛田
    1965/10-1966/09 第1みちのく(上野−大鰐・鳴子)・陸中(上野−盛・宮古) 仙台−小牛田
    1965/10-1968/09 あいづ(喜多方・只見・会津田島−仙台)・いわき1号(水戸−仙台) 郡山−仙台
    [8] 列車の分割・併結はヨーロッパにおいて国際規模で行われてきた。1979年時点のベルギー・オステンデ発の「東西急行」はベルリン、ワルシャワ経由モスクワ行、ハンブルグ経由コペンハーゲン行、ミュンヘン経由ザルツブルグ、ヴィラハ行の列車で、各国の車両を併結していた。TGV等高速新線の建設によりヨーロッパにおいてもネット型からシャトル型への変化が見られるが、一方で異なった国の客車を併結するネット型輸送も健在である。
    [9] 私鉄の買収は、太平洋戦争中にも実施され、1943年4月の小野田鉄道(小野田線)を初めとして、豊川・鳳来寺・三信・伊那電気鉄道(飯田線)、南武鉄道(南武線、五日市線)、青梅電気鉄道(青梅線)、宮城電気鉄道(仙石線)など22鉄道、1,067キロが買収された。
    [10] おどろくべきことに、鉄道敷設法は1987年の国鉄民営化まで存続し、国鉄が赤字になってからも一部の赤字路線を廃止する一方で、採算の見込みの立たない別のローカル路線を建設し続けた法的根拠になっていた。「敷設スヘキ路線」を定めた鉄道敷設法別表の147の2に「釧路国白糠ヨリ十勝国足寄ニ至ル鉄道」がある。この白糠線は、鉄道施設法に従って建設が進み、1964年10月7日白糠−上茶路間が、1972年9月8日上茶路−北進間が開業した。しかし足寄まで線路が伸びることはなく、国鉄経営再建促進特別措置法で特定地方交通線に指定され、1983年10月23日全線が廃止された。上茶路−北進間は11年の寿命しかなかった。
    [11] 国鉄経営再建促進特別措置法は、第8条で、幹線鉄道網を構成する路線を除き、適切な措置を講じても収支の均衡が困難な路線(地方交通線)及び地方交通線のうち廃止してバスに転換する路線(特定地方交通線)選定し、第9条で、路線ごとに特定地方交通線対策協議会の協議を経て、廃止許可を申請するという手続きを定めた。国鉄経営再建促進特別措置法施行令(81/3/11)による、地方交通線及び特定地方交通線の基準は、次のとおり定められた。国鉄の線路名称を基準に一律に適用しているので、必ずしも実態とあわなかった。
    幹線:(1)人口10万人以上の都市(主要都市)を相互に連絡し、旅客営業キロが30キロを超え、すべての隣接駅間の旅客輸送密度(キロあたりの1日平均輸送人員)が4000人以上の路線、(2)1の路線と主要都市を連絡し、旅客営業キロが30キロを超え、すべての隣接駅間の旅客輸送密度(キロあたりの1日平均輸送人員)が4000人以上の路線、(3)貨物輸送密度が4000トン以上の路線
    地方交通線:旅客輸送密度が、8000人未満の路線;
    特定地方交通線:旅客輸送密度が、4000人未満、ただし1.隣接駅間の1時間あたりの最大旅客輸送人員が1000人以上の路 線、2.道路の整備状況によりバス転換が不可能な路線、3.積雪によるバス走行不能期間が1年あたり10日を超える路線、4.旅客一人あたりの平均乗車距離が30キロを超え、かつ平均輸送密度が1000人を超える路線を除く
    [12] 東京都江東区が検討している亀戸−新木場間のLRT建設計画では、全長5.8キロのうち総武線貨物支線(越中島貨物線)の線路3.8キロを利用し、建設費の削減を図ろうとしている。
    [13] 最近になって、公共交通移動円滑化設備整備費補助制度による低床式車輌(LRV)の購入に補助金が出るようになった。なお、都市内の鉄軌道系交通機関の整備に対する最も手厚い補助制度は、運輸施設整備事業団による地下高速鉄道整備事業費補助制度である。このため、需要が大きくない地方都市においても、採算を度外視したフル規格の地下鉄が建設された。中心市街地のみ地下の専用軌道を走行するLRTで十分であった。
    [14] 鉄道事業法施行規則第37条第1項で定める乗り継ぎ円滑化の具体的措置は以下のとおり。
    1 他の鉄道事業者との間の相互直通運転又は同一のプラットホームでの対面による接続
    2 他の運送事業者の運送との間の旅客の乗継ぎを円滑にするための改札口の新設その他の鉄道施設の建設又は改良
    3 貨物利用運送事業者等の運送との間の貨物の引継ぎを円滑にするための駅における鉄道線路の配線の変更その他の鉄道施設の建設又は改良
    4 他の運送事業者の運送との間の乗車券の共通化又は旅客の乗継ぎ若しくは貨物の引継ぎに関する分かりやすい情報提供
    5 前各号に掲げるもののほか、他の運送事業者の運送との間の旅客の乗継ぎ又は貨物の引継ぎを円滑に行うための措置
    国土交通省は、この施行規則の改正にあたってパブリックコメントを求め、「同一事業者においても乗換えの解消、対面ホームでの乗換えの推進を図る規定を設けるべきである」とのコメントがだされた。これに対し国土交通省は、「鉄道事業法22条の2の乗継円滑化措置の規定が鉄道事業者と他の運送事業者との間の措置であることから、事業者間の乗継円滑化措置の努力義務についてのみ定めた。利用者利便の向上は、事業者の自主性・主体性を尊重することが望ましいが、異なる事業者間の乗継円滑化措置を講じる際に事業者間の費用負担の調整が難航したり、利用者の転移を防ぐ観点から他の運送事業者との接続を拒むという問題があることから、法律を改正して努力義務として規定した」という趣旨の回答をしている。
    [15] 複々線化による快速線と緩行線の分離は、中央線・中野−荻窪間(61/4)、荻窪−三鷹間(69/4)、常磐線・北千住−我孫子間(71/4)、総武線・錦糸町−津田沼間(72/7)、津田沼−千葉間(81/7)。
    京浜東北線電車が緩行線の役割を果たしていた東海道線と東北線は、貨物線を新設し、長中距離列車線から分離した。これにより東海道線では、1980年10月、横須賀線電車を旧貨物線に分離、品川-東京間の地下新線を経由して総武快速線と直行する。また、1988年7月新設した羽沢貨物線を使用した定期旅客列車「新宿湘南ライナー」の運転を開始する。東北線でも、分離した貨物線を使用して、1988年3月、東北線・高崎線の池袋行中距離電車の運転を開始、2001年12月、新宿湘南ラインとして、東海道・横須賀線に直通する。
    [16] JR西日本の福知山線の脱線事故に関して、私鉄との競争に勝つための「アーバンネットワーク」戦略が効率性・増収優先の経営方針として批判されている。 福知山線と東西線の乗り入れに伴う線路付け替えによって発生現場のカーブ(曲線半径300メートルで緩和曲線がほとんどない)が生じたとのことであり、相互乗り入れが事故の遠因とするされているようだ。しかし、尼崎駅の同一ホーム乗り換え・交互直通運転による接続のシームレス化によって旅客の便宜を図ることに問題があるのではなく、そのための安全性確保を怠ったことが問題であることを強調しておきたい。
    [17] 鉄道事業法の乗継円滑化措置に加えて、2005年には、都市鉄道等利便増進法が制定された。「既存の都市鉄道施設を有効活用しつつ行う都市鉄道利便増進事業を円滑に 実施し、併せて交通結節機能の高度化を図る」ことを目的として、既存の鉄道を連絡する新線の建設等の「速達性向上事業」と乗り換えの利便性向上のための「駅施設利用円滑化事業」を定めている。

    改訂履歴
    2004/11/15: 2004年10月ダイヤ改正、2003年以降の新線開業等を反映し、図表を追加して大幅に改訂。
    2005/07/09: 図2の2004年10月改正ダイヤを2005年3月(東海道線)、7月(常磐線)改正ダイヤに変更。別表1の走行区間を詳細に記載。注16を追加。
    2006/11/19: 目次を設置。表1を2006年末現在のデータに変更。別表2、3にその後2006年末までの開業・廃止区間を追加。ネット化・シャトル化年表に追記。
    2007/06/09: 図1を新設(図1-3を図2-4に変更)。図2の旅客輸送シェアの推移グラフに、2004年のデータを追加。図3の2005年3月(東海道線)、7月(常磐線)改正ダイヤを2007年3月改正ダイヤに変更。表1を2007年3月末現在のデータに変更。別表2、3を最新データに変更。「鉄道ネットワークを活かす道」の章を再構成し、「ネットワーク復活の兆し」を追加。相鉄のJR、東急乗り入れ計画について追記。ネット化・シャトル化年表に追記。

    初出 2003/06/22
    最終更新 2007/06/09
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